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【掌編】ささやかな願い

 人類のみなさまへ。これは私の決意表明です。
 敢えて「人類のみなさま」と人類とは違う対場に自分を置いて皆様に語りかけることが、私が人類であることを辞める第一歩です。
 私は物心が付いたときから自分が人間の肉体を持って生まれたことに違和感を覚えていました。漠然とではありますが、日々自分のあるべき姿・形はこれではないという想いを持って過ごし、幼い頃に自分の本来の形を探すかのように三角や四角や丸の積み木を熱心に眺めていたのを覚えています。自分自身の肉体に釈然としない想いを抱えていた私は落ち着きがなくいつも腹を立てていたので、そんな心の裡が周囲に伝わったのか友達ができることもありませんでした。
 小学生になる頃まではこれは私の形ではないと自分に言い聞かせるだけで済んでいましたが、周囲の人間にそれぞれの個性の違いが顕在する年頃になると、あるものの存在が私を最も嫌悪させるようになりました。それは人間の肩から長く伸びる腕と、その先に生える五本の指です。今こうして喋りながら思い出しただけでも吐いてしまいそうになるのですが、何よりも嫌なのはその忌み嫌う二本の腕と十本の指が自分にも同じように生えてしまっていることです。その時になってようやく人間の形は相応しくないと思う根源が腕と指であると気付きました。
 早い子では小学生の高学年になった辺りから異性との交際を始めます。休み時間、教室の何処からか「この間、初めて彼氏と手を繋いで歩いた」とか「後ろからハグされた」とか聞こえてくる度、私は居ても立ってもいられなくなり急いでトイレに逃げ込んでいました。二人の人間の絡み合う指のグロテスクさ、自分の背後から襲い来る卑しい腕の脅威、そういった状況が脳裏にチラつくだけで怖くてしょうがなく、当時はその恐怖が過ぎ去るまで暗いトイレの個室で蹲るしか術がありませんでした。
 私はずっとそのような恐怖を抱え、その常々打ち負かされて育ってきたので、大人になった現在に至るまでに恋人なんていた試はありません。もちろん人並くらいに異性や性に対する憧れはありました。誰かと共に寄り添い合って寝る、そのような妄想をした夜もあります。しかし異性の醜悪な腕と指が自分の肉体に触れ弄っているのに思い当たると、たちまち吐き気を催し冷酷な現実へと引き戻されます。この形を持って生まれてしまった悲劇のために私は誰も愛することができないのです。人生で一度でいいから何者にも邪魔されずに誰かを愛したい、そして誰かの愛を純粋なそのままの形で受け取りたい。そんな願いを持つことは贅沢でしょうか。

 そんな鬱屈した靄を抱えた中でたまたま出会ったのが御社の商品でした。何気なく買い物をしていて商品棚にその存在を発見したとき、それは荒れ果てた戦場に雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいるようでした。その形状は私を魅了し、しばらくその棚の前から動くことが出来ませんでした。いやそこから私は動きたくなかったのです。すぐにこれこそが長年追い求めていた形であり、私の本来の姿であることに思い当たりました。
 私はそれを独占するために商品棚に並ぶその商品すべてを自分の買い物カゴに詰め込み、急いで会計を済ませて帰宅するや否や居間の机上に慎重に一つずつ積み上げていきました。近くで手に取ってまじまじと見つめたり遠くに離れて部屋の隅から観察してみたのですが、どの距離や角度から見ようともその品格は粛然としており美しさを崩すことはありませんでした。それは「これこそが私なのだ」と私を恍惚とさせました。神の託宣を受けるとはこうゆうことなのかもしれません。
 それから私は深く呼吸をすることを意識して精神を落ち着かせ、椅子に座ってテーブルに置かれた魅了する箱の内の一つを手に取りました。逸る気持ちを抑えながら外装の箱をゆっくりと開けると、なんとそこには三つの同じ商品が二段、計六個整然と綺麗に収まっているではないですか! どこまでも美しく品を保っていらっしゃる。そして六つのうちの一つを私の悍ましい指で触れることにお詫びを申し上げながら摘まみ上げ、震えながらプラスチックの袋から本体を取り出して皿の上に置いたのです。それは神々の食卓に並べられたかのように輝きを放ち、その姿を見た途端に私の人間である肉体は吹き飛ばされ、私の心はその形の中へと移ったのです。
 チョコパイ。あぁ、なんと麗しき名前。可愛らしいほど小さくて丸いチョコレートのお菓子に私はなりたいのです。醜い腕も指も持つことのないこの美しく円を描く丸い形状こそが私の本来の形であり肉体なのです。この形になれれば私は自分が自分として存在できて、誰かを愛することすらも容易でしょう。そしてやがてこの世界の何処かに存在する異性のチョコパイと出会った私は、表面がとろけてなくなってしまうほどにその肌と肌を熱く合わせることでしょう。なぜなら混ざりゆく円と円は神の視点でインフィニティーを表しているのですから。
 訪れるその無限の幸福の瞬間に向けて、今日私は人類を辞めなければならないのです。ここにお集りの人類の皆様、どうか私をチョコパイにしてください。以上が御社を志望させて頂きました理由です。

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