想像と創造の話

 昔、国語のテストの内容で、
『「人生にはそうぞう力が大切だ」この際に「想像」と「創造」のどちらを貴方は書きますか。その理由も書きなさい。』
といったニュアンスの問題がでてきて、悩みに悩んだ挙げ句、「どちらも大切であり、どちらでも取れるようにあえて、片仮名でソウゾウと私なら書く。」と答えた。

 当たり前だが、その問題で求められている正しい答え方ではなく、ペケをもらった。
 本来、これらは「想像」と「創造」の違いを理解した上で、自分が大切だと思う方へ、実体験や経験、思想を理由に答える問題であり、どちらを選んでもよく、理由だってそれなりなものが書けていれば良い、いわゆるラッキー問題だ。

 しかし、若き日の私は、アンラッキーボーイになってしまった。というか、ひねくれボーイなのだ。
 まず、この問題に、その時のテストで一番の時間を消費した。どっちが大切かを真剣に考えた上で、「想像」と「創造」は両者、持ちつ持たれつな関係であることを発見した。想像力がなきゃ、考えが生まれたり、プランを練ったり、結果を予測したりすることができない。創造力がなきゃ、それは机上の空論になるし、実現できなければ、月を眺めてるだけの存在となってしまう。
 つまり、「二つで一つみたいなもんじゃん」って考えついてしまったのだ。
 となると、問題が間違ってるじゃないのかと疑い始めるが、誰も声をあげないから、その線も薄いのだと思った。

 そこで、閃いてしまったのだ。二つを表せるような言葉を作ればいいじゃんって。
 ここでもう問題の『「想像」と「創造」のどちらを書きますか。」を置いて、私は月に出発していた。
 そこで生まれたのが、「ソウゾウ」。
 あえて漢字で書かなかったからには、そこに意味があるのだろう。と読んでいる人は考えつくだろうと思ったのだ。
 おそらくこれは合っているが、テストでは大間違いだ。

 そして、テストが返却されたときの私は、その問題へ一番に目を向けた。「多分二重まるを貰えるはず!なんかコメントされてないかな」と浮かれていたのだ。でも結果は当然のペケ。
 「あ、先生これの意味わかってないんだ」と往生際の悪いことを思ったの同時に「まあ選択肢にないし、間違えなのは仕方ないか」とも思った。しかし、一応、「先生が意味わかってないセン」に賭けて、先生のところへ向かった。

 それで一通り説明してるが、「間違ってはいるけど、いい発想だと思った。と言われるだろうな」と考えていた。そんな私の思惑とは裏腹に、先生は開口一番に「ソウゾウって書かれてわかるわけじゃない」と言われた。

 大ショックを受けた。先生に。

 それで追い払うかのように席に戻るように促され、「つまんな。」って頭の中でボソって言った気がするけど、もしかしたら、口にもでてた。
 大の大人が、ってか国語の先生がそれをわからないだなんて。だし、言い方が考えろよ。国語の先生なら。って気持ちでいっぱいだった。


 今でも「想像」と「創造」の文字を書く時に思い出す。このエピソード。国語は好きだったけど、国語の先生は嫌いだったことも思いだす。俺なら華丸にして、褒めちぎるけどなって今でも思う。点数はあげれないけど、間違ってない。
 そして、「想像」と「創造」から「ソウゾウ」を生み出した、この流れこそ「ソウゾウ」を的確に表している。この中国の昔話に出てきそうなイメージで。「想像」と「創造」の関係性を考えて、二つの意味を持った言葉を作ろうという発想から、片仮名を使うという創造。実に素晴らしい。

 これまでの人生、たくさんのことを想像し、創造してきた。そこで失敗や成功を繰り返し、想像力も創造力も良いものとなるように努めてきた。それはこれからも続くだろうし、これは私に限った話ではない。一丁前に言わせてもらうが、人類はそうやって進歩してきたのだ。そうこの人生で思ったから、声を大にして言われてもらおう。

『人生にはソウゾウ力が大切だ。』

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