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わが人生の時の時

僕たちに校正ルールをみっちり仕込んでくれた先生は実は2人いた。

僕が先生と呼ぶのはT君で、もうひとりはSさんという眼鏡が理知的で快活な大学中退をしたばかりの女性がいた。彼女は弘前出身だから、先生は陰で太宰と呼んでいたのだが、僕たちの彼女の呼び名はSさんで通した。

先生とSさんはコンビで僕たちの指導係というわけだ。先生はSさんより年上だったが、主導権はSさんに握られっぱなしだったように思う。大輔花子だと僕たちは先生たちを囃し立てた。先生は失敬なと顔を真っ赤にしていた。Sさんはイヤだーと、すぐどこかに行ってしまった。

派遣校正者として月にすれば普通の会社員並みの給料だったが、繁忙期の深夜勤務のせいで、みな自律神経をやられリタイヤしていくのだった。元いた職場が激務薄給だと派遣労働者を選んだのに、「戻ってきてくれとしつこくて」と前の仕事にのうのうと復帰する人もいた。

僕は山ちゃんを見送り、その課で派遣社員最後の一人になっていた。繁忙期はとうに過ぎ、日中勤務の変わりばえのしない毎日を送っていた。R社の人間でない僕は、かつての先生のように孤独で無口になっていった。

先生はいつのころか出社しなくなっていた。

その日、課内が騒がしかった。リーダーが昨夜、先生のアパートを訪ねたところ、先生は確かにいたのだがベランダから逃走し、会えずじまいだったという。まったくどこまでも猫のようだと僕も会話に自然と参加していた。先生は生きていたと僕は安堵した。

1週間くらいして、先生のお母さんが姿を見せた。一六タルトを手にご迷惑をおかけしてと頭を下げた。これで先生とのこともひと区切りがついたのだ。

僕も次の仕事が決まって送別会の日。90歳近いおばあちゃんの煮魚がうまい一杯飯屋に、ニット帽を目深にかぶった男が角の席で丸くなって座っていた。

驚かそうと思って。先生の声は相変わらずか細かった。「逃走」「母の上京」と先生をめぐる状況は改善しているのか悪化しているのか皆目見当がつかなったから、先生の生の姿を認めるにつけ抱擁までしたのは致し方ないことだろう。

先生の病の真相はたわいない話だ。
先生はSさんに告白して撃沈した。
Sさんには好きな人がずっといたのだ、それも社内に。それはうすうす僕も気づいていた。先生には見せないSさんの笑顔がその男性に向けられていた。当然先生も分かっていただろう。分かっていて先生は行動を起こした。これを本人から聞いたように記憶するが、もしかすると後日、第三者から耳に入ったことかもしれない。

最後に先生と何を話したのか全く覚えていない。人生で一番というくらい痛飲したのがこの夜だった。別れ際、先生と再び抱擁し握手を交わした。お互い、もう会うことはないでしょうと。

ぼくは都内から埼玉の実家までタクシーで帰ったそうだ。気分が悪くなり車内で派手にぶちまけ、朝、家の前の植木に頭を突っ込んでいたところを発見されたと妻から聞いた。

わが人生の時の時。

第5号を先生に送りたいのだが、先生の居場所を僕は知らない。知る由もない。
(了)


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