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それをノイズとは言わない。

私はひとりで雑誌をつくって多くのものを得て、多くのものを喪った。最大の喪失は自らの健康であるが、空白や傷を埋めて余りある瞬間もある。記事を読み「ここに私の仕事のすべてがある」と言われたとき、装画をお願いしたイラストレーターに「表紙を眺めては感激している」と言われたとき。

伝統ある商業誌が紙媒体の発行をやめていくなか、部数たった200部とはいえ、会社の人間に言わせれば「ペイできないもの」をつくり続けるのは、面の厚さはもちろんだが、作り手が上機嫌で編集することが、何よりも大事なことだ。

SDGsという世界言語でありながら、日本だけで流通しているテーマを掲げ、SNSにすむ住人からは「意識が高い」と蔑まれ、企業人からは時折「一緒にしないで。意識が低すぎる」と揶揄される。

創刊から5号目で、はじめて自分の雑誌のためだけに描きおろしてもらったイラストを表紙にすることができた。予算ゼロのひとり編集部としては、片足なら折っても仕方ないと崖から飛び降りる気持ちであった。

SDGsとローカルが5号の特集テーマである。「都会」「地方」の激しい衝突は繰り返され、そのたびに都会に地方に絶望する者を生む。「好きで住んでいるわけでない」と食って掛かられるシリアスな問題に違いない。

ただ、どうしても言っておきたいのは地方と都会では流れる時間のスピードが違うということだ。 デジタルとアナログ時計ほどの違いかもしれない。ある地域を取材した際、車で中心地を何度か行ったり来たりした。蕎麦を食べたかった。店は定休日だった。車の往来はあるのだが平日の昼間、人の気配があまり感じられない。渋谷や吉祥寺のアーケード街とは比べようもない。

取材はある自治体の交流施設で行われた。施設は民間のコワーキングスペースも同居していて、向こうにノートPCを広げる若者の姿が見えた。仕切りは一切ない。スマホ教室がこの日開かれ、使い方を教わりにお年寄りが何人か入ってきてスタッフに聞いていた、と思ったら、地元の中学生が何人も入ってきてにぎやかになった。中学生はカードゲームをするんだという。

自治体の職員さんはちょうど「いろんな人が寄ってくる縁側にしたい」と交流施設のことを話していたところだった。「お茶くれる」と近所のおじいさんが縁側にひょっこり現れるように、地域の人が気兼ねなくやってくる。すごいことが起こっていると思った。

雑誌といっても雑につくるつもりはない。新聞のオピニオン欄のように「なあ、そうだろ」と諭すようなつくりは絶対嫌だ。取材中に聞こえた物音やため息、沈黙もひっくるめて字にできればと思う。誰に伝わるのか心もとないけれど、ひとりの大きな声はわたしを惑わせる。雑音くらいがちょうどいいのかもしれない。

どうぞよろしくお願いします。

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