23番(花山版②)月みればちぢにものこそ 大江千里
花山周子記
月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど 大江千里 〔所載歌集『古今集』秋上(193)〕
前回引用した子規の文章の最後のところで、
とあって、大江千里は実際、父の代からの文章博士(漢学者)でもあった。『句題和歌』(大江千里集)では、漢詩の句を題にして詠んだ百二十六首が収められている。この集は宇多天皇の勅命によって編纂されたもので、漢学者として漢詩を和歌に翻案することは朝廷での彼のお役目でもあったことが伺える。
「月見れば」の歌は歌合せの場で詠まれたものであるが、この歌もまた、
ということで、子規が紀貫之のことは「貫之は下手な歌よみにて」と言っているのに対して千里のことはわざわざ「厳格に言はばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候」というところには、そういう千里の漢学者としての立場が示唆されているようにも思う。
ところで、興味が湧くのは、馬場あき子の言う「この時代の一つの流行でもあり、和歌の表現に広がりが加わる場面でもあった」というところ。
田辺聖子もまた次のように書いている。
こういうのおもしろいなと思う。和歌といっても、万葉集、古今集、新古今集あたりならば、それぞれの特徴は頭の中である程度思い描くことはできるけれど、400年にも亘る平安時代の長い長い時間のなかでの文化形成の過程や微妙な推移みたいなものはぜんぜんわかっていない。
じゃあ和歌の時代でいうと「千里の生きた時代」とはいつ頃か。このnoteで歌と歌意の引用でも使わせていただいている『原色小倉百人一首』には、「百人一首歌人生没年表」というとても便利な見開きの年表があって、ひと目で、どの歌人と歌人が時代を重ねているかが分かる。大江千里は生没年が未詳ではあるものの、おおよそは紀貫之と生きた時代を同じくしていて、つまりは古今集時代の歌人である。だから、「漢詩と和歌が歩みよりはじめた時代」、「紫式部や清少納言の輩出する百年ほど前」というのは、即ち古今集(905年発布)時代のことで、古今集の特徴であるところの、ことわりめいた、きっちりとした歌の作りと、序詞や掛詞といった技の凌ぎとの両者を「和歌の表現に広がりが加わる場面(馬場あき子)」「中国文化の影響を脱け出して、日本古来の文化が見直された頃/漢詩文と和歌が歩みよりはじめた時代(田辺聖子)」という観点から考察するとき見えてくるものもまたある気がしている。まあ、たぶん多くの学者が既に考察していることのはずなんだけども。
ちなみに、小倉百人一首の歌はほぼ時代順に並んでいるので、このアンソロジーを順番に読むことは、万葉時代から平安末期の藤原定家の時代(新古今集)までの和歌の推移をそのまま追えることにもなるので、ここまで書いてきて、その手ごたえが徐々に増していて、すごく面白い。だから、最近私が書いてきた、18番「住の江の岸による波よるさへや夢の通いひ路人めよくらむ/藤原敏行」や19番「難波潟みじかき芦のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや/伊勢」の歌なども古今集時代の歌であり、なるほど、5番「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋は悲しき/猿丸大夫」などとは歌のつくりがぜんぜん違うなあと今さらながら思うのである。
そんなわけで、主婦と兼業をはじめた当初、18番~21番の歌は今橋愛さんが『トリビュート百人一首』で書いていたこともあり、その間の偶数分は私が担当し、かわりにこの23番や25番を今橋さんが担当することに確かなっていたのだけど、やはり奇数の歌だけでもちゃんと順番通りに書いてみたいと思った。特にこの大江千里の歌は自分のなかでキーポイントでもあったので、だいぶ脱線してしまったのだけど、次回、歌について書いて終わりにします。
脱線ついでに、もう一つ。大江千里は在原業平の甥(千里の父、大江音人が業平の異母兄)にあたる。生年はぎりぎり重なるか重ならないか程度なので、交流などはまずあり得ないのだけど、かたや学者、かたや「放縦二シテ拘ハラズ、略才学無キモ、善ク倭歌ヲ作ル」(『三代実録』)などと言われていてこの両者のコントラストもまたおもしろいなあと思う。
(つづく)
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