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23番(花山版①) 月みればちぢにものこそ    大江千里

花山周子記

月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど 大江千里おおえのちさと
 〔所載歌集『古今集』秋上(193)〕

歌意
月を見ると、あれこれと際限なく物事が悲しく思われるなあ。私一人だけの秋ではないけれども。

『原色小倉百人一首』(文英堂)

名歌としてよく知られた歌である。この歌が詠まれてからというもの、秋のさびしさを味わうときにはきっとたくさんの人々が「わが身一つの秋にはあらねど」とつぶやいてきたのだろうと想像される。ところで、私は、この歌を読むと、いつも、これもまた有名な次の正岡子規の批評を思い出す。

  月見れば千々に物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど
といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理窟なり蛇足だそくなりと存候ぞんじさうらふ。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。この歌下二句が理窟なる事は消極的に言ひたるにても知れ可申まうすべく、もしわが身一つの秋と思ふとむならば感情的なれども、秋ではないがと当り前の事をいはば理窟におちい申候まうしさうらふ。箇様な歌を善しと思ふはその人が理窟を離れぬがためなり、俗人は申すに及ばず、今のいはゆる歌よみどもは多く理窟を並べて楽《たのし》みをり候。厳格に言はばこれらは歌でもなく歌よみでもなく候。  

正岡子規「たび歌よみに与ふる書」
※和歌の表記は原文に従っている。また、適宜ルビを追加している。

子規らしい歯に衣着せぬ軽快な物言いである。そして、もし、「わが身一つの秋と思う」と詠っていれば、感情的になるが、「わが身一つの秋ではないが」と詠われては、当たり前すぎて、ただの理屈に陥るという指摘は和歌・短歌の本質を突いていると思う。これをわたしなりに言い換えれば、「感情」はすなわち「主観」ということになるだろうか。歌は主観を軸に言い放ってしまう、そのときに、短い言葉が、のっぴきならない説得力をもって迫ってくるところがあって、一首を生き切る気概のようなものがときに必要になってくる。そういう脇見をしない姿が歌の詩としての生理を生かすことにもなるのだ。それを、「わが身一つの秋」と思ったのは私の主観でした、はい、すみません、などと弱気になってしまうと、すっかり興ざめしてしまう場合が往々にしてあるのである。

もちろん、和歌・短歌の良し悪しはそれだけではないし、この歌の場合、わが身一つの秋にはあらねど、によって、

いったん他者を経由して、自己のかなしみを述べているところがこの歌の優れたところだろう。あくまでうたわれているのは〈私〉のかなしみなのだが、この歌の下の句は、〈私〉ひとりのかなしみを超えて、同じようにかなしみを抱くあまたの人びとのことを思わせる。(略)他者に繋がる回路が残されているところが、名歌として今も広く愛されている理由ではないだろうか。

田村元『トリビュート百人一首』

と田村が指摘しているように、多くの人に愛誦されるまでの普遍性を手にしてもいるのだ。そしてまた、わたし一人の秋ではないが、とわざわざ自分に言い聞かせるように断わることで、だけれども…という、反語的に噛みしめられる思いが滲んでもいる。あるいは、あとで少し触れるけれどもこの歌の場合、漢詩との関係も大事になってくる。

子規もまたそういうこの歌の在り方に目が届いていないわけではない。ということは言い添えておきたいが、必ずしも戦略的な立場からのみ、この歌を批判したともわたしは思わない。子規の批評は生きた正直な批評である。歌の様々な価値、イレギュラーな価値を無視せずに、ケースバイケースではきはきと物を言っていく。一般には客観を提唱したと思われている子規であるが、その内実は各々の歌に応じて自在に批評を展開しているのだ。

つづく

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