間取りや屋根の色が変わろうともの回 ~30歳になるまでに解きたい呪い~

 

間取りや屋根の色が変わろうとも



 私はこの年になってもまだ母親に希望や理想を抱いている。
 私はいつまでも、あの人の子どもなのだと思う。

 いつか愛してもらえる、優しくしてもらえる、そう考えて期待して裏切られる。
 

 次男はどうしてそんなに母に愛されるのか、私にはわからない。
 確かに特別可愛い容姿で産まれ祖母に疎まれて育ち長男との格差がある分母が愛情を注ぐのもわかるが、その祖母との暮らしは私が8歳のときに終わりを迎える。

 私たちに引っ越しという大イベントがやってくるのだ。

 なぜ引っ越しをすることになったかは知らなく、新しい家は小学校が近くなるので嬉しかった。30分かけて登下校する小学校が10分で行ける距離になるのはとんでもなく革命だった。
 今ならわかることはあの時住んでいた家を売ったということだけで事情まではわからない。

 この家にいると父が姉を殴り姉の悲鳴が聞こえるので家が変わればそれが無くなると思った。

 子どもにとって環境が変わるということはそれくらい大きなことなんだと思う。
 父の暴力が家の住所が変わって間取りや屋根の色が変わったところで治まることがないことは今ならわかるが、子どもはそれくらいのことで何かが大きく変わると思えて信じてしまえる。


  幼さとは残酷で無知が過ぎるだと思う。

 結局、引っ越したところで父の暴力は終わらなかった。むしろ酷くなった。
 母と父の喧嘩は頻繁に起こるようになったし、姉への暴力はより過激になった。

 家が広くなったところで、生活に余裕ができるわけじゃないし心に余裕が出来るわけじゃない。
 むしろこの家はとても生活を圧迫しているように思えた。それは幼いながらに感じた。そして、私は気づく。

  あれ?我が家って貧乏なんじゃない…?


 そんななかでも私は家が好きだった。
 長男とはそんなに遊んだ記憶もなくて姉も高校生になっていたので朝早く家を出て夜に帰ってきていたので、やっぱり遊んでくれるのは次男だった。

 次男と遊ぶのは楽しかった。
 兄は私のしたい遊びにいつも付き合ってくれて、流行っていたゲームをしたいはずなのにいつも遊んでくれた。
 放課後、外で遊んでいても帰ってくれば遊んでくれたし、私が外で友だちと遊んでいると同じ公園にいるといつも気にしてくれた。
 そういう次男だから母が溺愛、寵愛をしていても気にならなかった。その頃から父も母も私を気にかけているようで気にかけてはいなかったから、私を気にかけてくれる次男が大好きだった。

 年子の兄と私は明確に男と女で分けられ、私にはまだ早いと多くのことを諦めるように言われてきた。
 しかしそれは所謂『男の子・女の子らしく』というものに縛られた考えの元、分けられる線引きだった。

 私は兄と同じように走り回って同じように自転車にだって乗りたかった。
 私は自転車に乗ることすらなかなか許してもらえなかった。自転車が許されたのは7歳のときだった。
 ゲームは難しいからできないとなかなか買ってもらえなかった。

 ポケモンが主流だった頃、赤と緑とかルビーとサファイアを兄たちはしていた。
 一人一つのゲーム機にソフトが与えられていて、私も欲しくてねだったことがある。

 父は「お前にはまだ難しい」と言ったが、母は「同じソフトは家に2個もいらない」と言った。

 難しいという理由はまだ諦めがついたが、同じソフトは2個もいらないだけは納得できなかった。
 母にルビーとサファイアの違いがわかると思わなかったからだ。
 ゲーム屋さんに行くのは本当に嫌だった。
 私はついていくだけで、買ってもらえるのは兄たちだけなのだ。じゃあなぜ一緒に来なきゃダメなのか、いても意味がないので私はゲーム屋の外で自然と待つようになった。
 ゲーム屋の前にある大きな枇杷の木をただ眺めるだけだった。

 そのあとエメラルドというソフトが出たときに欲しいとねだったが、買ってもらえなかった。(ちなみに、私が初めて自分のポケモンのソフトを手に入れるのは高校生になってからだ。これは姉が買ってくれる)


 それでも次男が私の前でゲームをしているのはあまり見たことがない。私がゲーム機を買ってもらうまではあまり見たことがないような気がする。
 長男はゲームをしているか宿題をしているかだったし、邪魔をすれば怒られたし父が出てくるのであまり近づかないでおいた。
 そんな長男のゲームデータを喧嘩の延長で消した次男は長男に一生の恨みを持たれているがこれはあまりにも余談なので、おいとこ。

 次男だけが私の救いだった。
 父も母も勉強しなさいとか手伝いをしなさいくらいしか言わなくて、遊んでいると怒られたりもしたが次男がいれば母は怒らなかった。

 でも、父は違った。

 父は長男に甘く、次男に厳しかった。
 次男を平気で殴る人だった。

 姉か次男がいつも殴られるターゲットだった。
 私はそれが本当に嫌だった。
 次男を殴る理由もわからなかったし私にとって父より母より姉よりも、次男が一番だったから父が許せなかった。
 その頃はまだ父を嫌いではなかったから、許せないという感情だけだった。

 そんなある日、私と次男が派手に喧嘩をしたことで父次男を怒鳴りつけて殴った。
 父は手も出るけど、刃物を持って追いかけたりすることもあった。
 私はそれが何より怖かった。殴られるより怒鳴られるより睨まれるより、鋭利な鈍く光る包丁を振り回す父が怖かった。

 次男はもうすでに父を好きではなくて、常に反抗的な目で父を見ていた。
 父はそれが気に入らなくて次男を好いてはいなかった。暴力を振るう親など好かれる要素なんてないのに嫌われることを嫌がるのは自分勝手で、子どもを自分の言うことを聞くだけの存在にしたかったのだろうか。あまりにも愚かである。


 仕事から帰ってきた母が次男が殴られたことを知って私を洗面所で叱りつけた。
 この新しい家で母に怒られる場所=洗面所という方程式が引っ越して一年もせずに出来上がる。

 母の言い分を全ては思い出せないが母は私を睨み付けて「喧嘩をするな」「あんたが我慢しろ」「次男と遊ばず勉強してなさい」みたいなことを言っていた。

 父が刃物を振り回して姉や次男を追いかけようといつも母が心配をするのは次男だけだった。
 姉が怒られ殴られ刃物を向けられても、自分に害が及びそうになるとパニックになりヒステリックを起こすだけの母はその後姉を心配したりすることはなく、「父親を怒らせるようなことをするな」という言葉を投げかけるような人。

 そして、自分が愛してやまない次男だと話が変わる。
 心配はもちろんするし、次男ではない誰かが悪いを語るような人だった。

 私には両親をそういう頭のおかしい親だと理解して受け入れて、親に期待をしない子供になるまでに時間がかかった。

 そして屋根の色はあの頃から何度も変わったが、母にはまだ期待を少なからずしてしまっていて、誰よりも愚かなのは自身だなと感じる日々である。



 

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