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「それでもまだ私は失う」⑥

シャワーから上がって来た彼が、私が部屋にいないことと、窓が開けっぱなしになっていることに気づき、ベランダの下を確認したのだと思う。
それか、あの悲鳴の持ち主である女の人がそうしたのだろうか、それはわからない。

動く気のない私は、誰に何を聞かれても、心が死に過ぎていて何も答えることが出来ない。
救急車を呼ばれ、まずは怪我をなんとかする為、多分レントゲンを撮ったり手術などが出来る病院へと運ばれたのだと思う。
そのどこだかの病院で検査をされ、大して悲惨でもない怪我の手術を受け、数日間だか数週間だか、痛み止めだかなんだかの薬でラリっていたのか絶望しすぎていたので記憶が曖昧なだけなのか、何もかもをよく覚えていない。
何はともあれ、私はその身におった怪我が完治する前に再び精神科の病棟へと入院先を移動させられることとなった。

私の怪我は、またもや案外軽いものだったらしい。

しかし、母には弱った祖母の面倒を見ると言う役割があるし、父は危険な場所へと泊まり込みで仕事へ行っている。

私は、震災と原発事故の被災者で避難中の身であること、両親が迎えには来られる状況ではないこと、全ての事情を医師に伝える。
もちろん、私を泊めてくれていた青年にはこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないと考えた。
その結果、この時はずいぶんと長い付き合いになっていた東京で暮らしていた間だいぶ仲が良くなっていた極太客に連絡し、頼み、迎えに来てもらうことで退院することが出来た。
なぜそんなにうまく行ったのかはよくわからない。
彼が弁護士だったからだろうか。

また頭に縫い跡と禿げが増え、肋骨も折っていたし、膝には蚯蚓腫れのような引き攣った傷跡が出来た。
なんて丈夫な命だろう。
私は全然死なない。

今の私は元気だが、それでも自分の中の半分の歴史を失ってしまったような気持ちを持って生きている。

それだけ愛していた、故郷を、心から。

今、私が多少の災難や苦しみに苛まれても、それでもなんとか生きられるのは、この原発事故での避難経験を含む、今までの経験から大抵のことは「なんてことないや」と思えるようになったのと、得難い希望、と言うものを手に入れたからだ。

その希望、の話はまたいつか。



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