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「それでもまだ私は失う」⑤

ここまでで書いた通りなのだが、私の生まれ育った故郷は東日本大震災の後に、爆発を起こしたり、放射能を蒔き散らかしたりした原発のある町だ。
けれど、私にとってはかけがえのない故郷であることには変わりはない。
本当に、心から愛しくて、愛してやまない故郷なのだ。

放射能がうつるから触るな、被災者は邪魔者。

風邪をひいて病院に行こうが、精神疾患の為の薬を処方して欲しくて心療内科に行こうが保険証に書かれている住所の土地名を見れば追い返される。

祖母の入れ歯を作る為に、母は何件もの歯医者を回った、断られ、追い出され、それでも祖母がご飯を食べられるようにと、よく知らない土地で、歯医者を探しては、何件も頼みに回った。

ホテルも、コンビニも、旅館も、スーパー銭湯さえ、嫌がられ、停めた車のナンバーで「虐めていい相手」「蔑んで良い相手」となり、車に悪戯をされる。

様々な偏見を受け、差別を受け、それでもなんとかアルコールに逃げ、誤魔化し、生にしがみつき生きて来た。
けれどもう、全てに耐えきれず抜け殻のようになっていた。

ああ、死にたい、また、いつの間にかそうとしか思えなくなっていた。

私はきっともう、とっくに生きることを諦めていた。

こんな想いをしてまで、どうして生きなくてはならないのだろう、と、そんなことをいつも考えていた。

希望?支え?絆?そんなもの、どこにも見えやしない。
だって誰も助けてなんかくれない。

皆私たちを邪魔者扱いしていて、嫌っているではないか。
私たちは、原発で被災して避難して来た者たちは、皆、死ぬべきだったのだろうか?

愚かで愚鈍で「安全神話」に騙されて「町を豊かにしたい」と言う夢を見て「バカを見た」、「自業自得の馬鹿ども」なんでしょう?
みんなそう言ってる。
「被災者は迷惑だ」ってそんな声しか、私には届かなかった。

私はどんなに「あの場所」を「ばい菌扱い」されても、「非難の的」にされても、嫌うことなんて到底できやしない。

なんたって、今の私の半分を作り、土台を築き上げてくれたのはあの場所なのだから。

愛していた、あの、私を育んでくれたあの土地を、小さな私を形り生きながらえさせてくれた世界を、心から。

ゴーストタウンと化したあの場所を、まるで「ばい菌」のように扱われ、その土地で「悪者」になった原発の恩恵を受け生きて来た私たちは「嫌われ者」で、差別して偏見の的にしても良い相手であった。

私には「支えようとしてくれている人の手」が、全く見えなかった。
「救い出そうとして、一生懸命手を差し伸べてくれている人の腕」が、全部嘘っぱちにしか感じなかった。

全てを失くしてしまった、帰る場所のなくなった、空っぽだった。
迷子になったような心細い、子供のような気持ちで避難していた最中、私は一度東京へ戻り懐かしい歌舞伎町へと向かった。
毎日毎日キャバクラでの仕事と救いを求め、ウロウロとさ迷った。

県内にはキャバクラは少なく、尚且つ身分証明書である保険証を見せれば、住所がバレてしまう。
それではまた追い出されるのではないか、どこも雇ってはくれないのではないか、と思ったのだ。

歌舞伎町で面接に受かったキャバクラに勤め日払いをもらう生活をして、日々をなんとか凌いだ。
元々そうだったが、この時も自暴自棄を極めていた。

そして私は今度はホストクラブのビルからではなく、東京での日々を共に過ごしてくれた、以前、歌舞伎町で出会ったとある男性の住むマンションの部屋のベランダから、再び飛び降り自殺をはかった。

今度は死ぬだろうと思っていた。
次こそは死ぬだろうと思っていた。
やっと終われると思っていた。

一度目とは違い、薬で酒を煽ったわけではなく、仕事上がりで酔いはほどほどと言った感じで、ただの諦めと消えない絶望感から、私は彼がシャワーを浴びている間にベランダの窓を開けた。

今回は、しっかりとコンクリートの地面に叩きつけられて、後頭部の頭蓋骨の骨が絶対に砕かれたと思った、それほどに痛かった。
空を仰ぐ形で私は倒れていたが、なんだか全てがだるいし、頭は酷く痛むし、体を動かす気力はなかった。
全開のように手首を切ったわけではなかったので、地面に血だまりを作ることもなく、綺麗な死に際なら良い、と思った。

女の人のものだろう、高い声で悲鳴が上がるのを、感覚のぶっ壊れた耳の鼓膜がなんとか最後に拾った。
とにかく頭だけが痛い、首はむち打ちかもしれない、痛覚は生きている、つまり私は死んでいない。

またダメか、と思って目を閉じた。


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