アンコール 8 「できない」
彼女も今日はもう帰るのだろう、と納得し、階段を上がったところで、もう二度と会うことはないだろうけれど、と心の中で呟きつつも、またね、と告げた。
「ありがとう。気をつけて帰ってね」
「ねえ、いつか行ってみない?モンゴル」
「は?僕が?モンゴル?」
「あたしのことを連れて行ってよ」
「どうして、僕が君をモンゴルに連れて行くんだよ」
「何度もあたしの胸を見たでしょ」
「ちゃんと、目をそらしただろう」
「見てもいいわよ。今日は貴方の家に帰ることにしたの」
何を勝手なことを、と思う気持ちと、どうしようもない本能から来る期待で、二の句が継げない。
自分は今、どのような表情をしているのか。
きっと筋肉は、ぎこちのない笑顔を作ろうと必死だろうが、情けないことに真実を暴露してしまう。
やはりひどく酔っているのかもしれない。
もしくは、彼女は魔女か何かなのではないだろうか。
明るく、朗らかで真面目な青年。
それが僕のはずだったと言うのに。
「…すまないけれど、僕は、できないんだ」
「何を言ってるの。誰も、しよう、なんて言ってないわ」
「…誘ってるんじゃなかったのか?」
「雨漏りがロマンチックに感じない日もあるのよ。ほら、月が見えない。朝が遅い。降るよ、もうすぐ」
「僕は、傘のかわりか」
「気にしているの?良かったら、試す?」
「いや。気が向いたらでいいよ。家、近いから。行こうか」
「あたし、お酒持っているわ。一緒に飲みましょ」
わざわざ、男として恥だと思い込んでいた、自分の秘密を吐露してしまった。
けれど、彼女はバカにもしなかったし、気にもとめていない様子だ。
もしかしたら、自分の気にし過ぎでしかなくて、このような人間は数多くいるものなのだろうか。
歩き出してから、ふと気づく。
名前。
彼女の名前も知らないし、僕も名乗っていなかった。
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