それでも祈り、続ける
はじめに断っておくが、僕は無神論者だ。
それでもスピリチュアル的なものは否定しない。
証明できないものは存在を否定できないから、未知なものを馬鹿げている、と無下にできないので、そういう世界があってもいいかもしれないな、程度に考えている。
こんな話をしたのは僕の知り合いには木の声が聞こえたり、ネコの話がわかるとサラッとカミングアウトする人が複数いるからだ。
僕もネコの気持ちは分かる。
チコちゃんを見ていて何となくだけど。
植物の声が聞こえたり、動物の言葉が分かるのはその人の波長がそれらに近いからだろう。
物資は粒子であるのと同時に波である。
高校物理ではじめて習った時はピンとこなかったが今ならすんなり納得できる。
僕の話に信ぴょう性がなければプランク、アインシュタイン、ド・ブロイの本か論文に目を通して頂ければよい。
少し論理が飛躍するかもしれないが、僕たち一人一人は波としての性質である固有振動数をもつ。
したがって「あの人とは波長が合わない」とか言うのは異なる固有振動数で共鳴しにくいのではないかなと考えられる。
さきの動植物の話にもどると、ちょっとこの人言ってることヤバくね?と思われるような言動も単に固有振動数が人間ではなく、植物や動物に近い、あるいはそれら別種族の振動数にチューニングしやすいと考えれば、あながちオカルトな話ではないかもしれない。
だから僕は証明できない事柄についてはあくまで仮説ではあるものの、否定はしない。
そのようなスピリチュアル的なものや考え方は例えるならば神社でお参りをしたり、お寺で法要をして頂いたりするのとほぼ同じではなかろうか。
昨日(2024/4/17)、中小企業診断士の資格取得のお礼参りに高龍神社を訪ねた。
無職の特権で平日の日中の参拝だったので、参拝客も少なく落ち着いて、お礼と近況報告を申し上げることできそうだった。初めて「参拝セット」(550円)なるものを購入して参道に向かう。
118段の階段を一段ずつ足もとを見ながらゆっくり上り、今日までの出来事を振り返った。
上ばかり見ていたら足もとをすくわれる。
遅くても着実に一歩ずつ前進することで、いつかはたどり着ける場所がある。
振り返るのは全てのことが終わってからでいい。
日頃の運動不足がたたってか神社にたどり着いた時には軽く足にきていた。
温かな春の日差しの中、本殿にお供え物を上げてお参りをした。
何のために祈るのか。
なぜ祈るのか。
答えはわからないけれど、少なくとも自分自身のためではなくて誰かの安全や幸せを願って手を合わせる。
そう、誰かの幸せのために、これからも一所懸命努力を続けると自分自身に誓う。
それによって、恩師に対する恩返しができると信じている。
これは本心だ。
今日も皆様にとって、良い一日になりますように。
Eyes on me.
きっと、どこかで見守ってくれる。
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