「お隣さんのサッカー」〜中央アジア・スター選手紹介(ザイヌッディノフ、アフメトフ)
これまでウズベキスタンのサッカー選手ばかり紹介してきたが、たまには隣国の選手についても語ってみようと思う。ただ、ウズベキスタンほど詳しいわけでは当然ないので、有名どころをピックアップして、自らの勉強も兼ねてまとめてみた。
まずは以前からまとめたかったザイヌッディノフとアフメトフについて書いた。まだ「手札」はあるので、ゆっくり追記しながら充実させていくつもりだ。
❶驚異の万能プレーヤー・ザイヌッディノフ
バクティヤル・バトゥルジャヌール・ザイヌッディノフ
en:Baktiyar/Bakhtiyar Batyrzhanuly Zaynutdinov
kk:Бақтияр Батыржанұлы Зайнутдинов / Baqtïyar Batırjanulı Zaýnwtdïnov
ru:Бактиёр/Бактияр/Бахтиёр/Бахтияр Батыржанович Зайнутдинов
1998年4月20日生、カザフスタン・ジャンブル州タラズ出身
利き足:左足
ポジション:GKを除く全て
所属チーム:タラズ(2017-18)→アスタナ(2018-19)→ロストフ(2019-21)→CSKA(2020-23)→ベシクタシュ(2023-)
代表チーム:カザフスタン(2018-)
エルドル・ショムロドフ(カリアリ)と並び、現在の中央アジアを代表する選手の一人。最大の武器は万能性。多くの媒体でポジションはミッドフィルダーと紹介されているが、ゴールキーパー以外の文字通りすべてのポジションでプレーしながらキャリアを築き上げてきた異次元のオールラウンダー。マルチロール性を支えるのは高い戦術理解と優れたフィジカル面の強さ。当たり負けしない頑強な身体と90分強度を落とさずプレーする体力を持つ上に、公称185cmと上背もある。攻守ともに派手さはないが、シンプルかつパワフルなプレーでチームに貢献する。
名前の表記にブレがあり、上記の通りさまざまに書かれるが、本稿ではカザフ語表記に準じた「バクティヤル・ザイヌッディノフ」とする。
生い立ちとカザフスタンでのキャリア
カザフスタン南東部、キルギスと国境を接するジャンブル州の州都タラズの出身。タラス川の作る扇状地に広がるオアシス都市で、紀元前から続く悠久の歴史を持つカザフスタン最古の町の一つ。ややこしいが、キルギス領内にもタラスという町がある(世界史でも馴染み深い、アッバース朝が唐を破り製紙法が西洋に伝わった古戦場はタラ「ス」近郊といわれる)。
サッカーを愛する家に生まれ、兄のボブル、弟のバフロム、いとこのジュラホン・ババハノフはいずれもサッカー選手。父のバトゥルジャン氏も当然サッカーファンであるが、生まれつき身体に障害を持ち、選手への道を進むことは叶わなかった。しかしサッカーへの情熱は失うことはなく、スペインサッカーと地元のチームであるタラズを熱心に応援する傍ら、息子がボールを蹴り出すと近所の子供を集めて「マハッラ」というチームを結成。自宅で建材店を営みながらチームの総監督を務めた。決して裕福な暮らしではなかったが、彼にサッカーの世界を開くきっかけを与えた。
「マハッラ」でのプレーの後、タラズの育成組織に加入。U-17カザフスタン代表に選出されるなど順調に成長する。当時のポジションは攻撃的MFで、古典的なプレーメーカータイプだったようだ。今も時折見せる正確な左足のプレースキックや懐の深いボール扱いに、そのルーツが垣間見れる。
しかし順風満帆とはいかず、2015年12月、ヴァレンチン・グラナートキン国際トーナメントの試合で前十字靭帯断裂の重傷を負う。大会の運営側は補償の意思を見せず、当時2部降格直後で活動規模を縮小していたタラズも治療費を負担できず、彼の一家もまた厳しい経済状況から手術代を捻出できなかった。運に見放され、キャリアの危機に瀕するも周囲の資金援助により手術を受けることができ、1年のリハビリを経て復帰。この一件を機にプレーも人も変わったと関係者は語る。
このとき、タラズの育成組織にはイェルケブラン・セイダフメトという選手がいた。プレースタイルから「カザフスタンのメッシ」とあだ名され、17歳でトップデビュー、18歳でカザフスタン代表に選出され、同年ロシアにステップアップをするのだが、ザイヌッディノフはこの2歳下の逸材の影に隠れていた。ヴォロトニコーフのいう「期待する人はいなかった」というのは、当時セイダフメトにより大きな注目が集まり、将来を嘱望されていたことを念頭に置いての発言だろう。
仲間にも助けられ、不屈の執念で怪我から復帰したザイヌッディノフ。2017年に18歳でタラズのトップチームデビュー。当時は3-5-2のインサイドハーフだった。リハビリ明けだったがタルガエフ監督に抜擢され、すぐにポジションを確保。主力として活躍し、そのシーズンの最優秀若手選手賞と新人王に輝いた。恩師タルガエフ監督とは育成組織在籍時から知遇はあったが、彼から戦術眼を叩き込まれたことが、万能性を得る大きなきっかけとなった。シーズンオフには強豪チームのアスタナとカイラトが争奪戦を繰り広げた結果、アスタナに移籍。アスタナが「加入後1年以内により強い国外リーグからオファーがあった場合、譲渡金を安く設定する条件をつける」という彼の申し出を受け入れたのが決め手だったという。
アスタナでの2018年シーズンはトップ下として開幕した。弱冠20歳で早くもマルチぶりを発揮、第3節のイルティシュ戦でハットトリックを達成しポジションをつかんだと思えば、シーズン後半には左右のウイングでチームキャプテンのショムコをベンチに追いやり、最終盤には左サイドバックでプレーし、アスタナのリーグ優勝に大きく貢献した。
アスタナのストイミロフ監督との出会いも彼の将来に大きな影響を与えた。ストイミロフ監督は当時はまだ攻撃寄りのタイプだった彼の課題を「90分間戦い抜く体力」と見抜き厳しく鍛え上げ、強靭なフィジカルを身につけた。
この年、カザフスタン代表入りを果たす(デビュー戦はセンターフォワードとしてプレー)と、アスタナの一員として参加したヨーロッパリーグではディナモ(キーウ)やレンヌといった格上チーム相手に活躍。これが関係者の目に留まり、ロシア1部のロストフに移籍。アスタナ加入時に契約に盛り込まれた条項により、違約金は非常に安価だった。
ロシア挑戦、ロストフからCSKAへ
ロストフにはシーズン途中の加入となった(カザフスタンは春秋制、ロシアは夏春制のため。当時ロシアは2018-19シーズン)。アスタナのコノチキンSDは「1年以内に主力になれなかったとしても、アスタナに復帰できるようにする」と話していたが、その期待(?)を裏切りロストフでも主力の座を手に入れる。2019-20シーズンは序盤こそアスタナ在籍時から痛めていた膝の治療で欠場したが、復帰後は4-3-3のインサイドハーフ、または両翼としてプレー。ショムロドフがウズベキスタンサッカー史に残る大ブレークを見せる中、彼もまた地味ながらチームを支えるプレーでカルピン監督の信頼を勝ち取り、リーグ戦5位フィニッシュの好成績に貢献した。
そして、シーズン終了後にさらなるステップアップを果たす。新天地は強豪のCSKA(モスクワ)。実はCSKAとは以前から縁があり、2015年にCSKAからオファーを受けたことがあるという。このときはまだロシアに行く必要はないと判断した家族がこの話を断っているが、それから5年の歳月を経て、奇遇にもそのチームに加入することになった。
彼はCSKAでもすぐに地位を確保。さらに高いレベルに揉まれ実力を養うだけでなく、その万能性がついに限界突破を迎える。初年度の2020-21シーズンは自身に興味を持ってくれたハンチャレンカ監督の下両翼とサイドバックでプレー。翌2021-22シーズンはA.ベレズツキー監督の下両翼とセンターハーフでプレー。かつてアスタナ時代に恩師のタルガエフ氏に「守備能力が低い」と指摘された男が、その次の2022-23シーズンはフェドートフ監督の下でついにキャリア初のセンターバックのレギュラーに抜擢。下記の通り高い守備能力を発揮し、リーグ戦と国内カップ戦のダブル達成の原動力となった。
毎シーズン違う監督の下、4-3-3、4-4-2、3-4-4、3-6-1と様々な布陣で戦ってきたが、そのいずれにおいても、毎年細かな負傷で離脱しながらも指揮官の求めるポジションで結果を出し続けた。試合中のシステム変更によるポジションチェンジも今やお手のもの。冒頭に掲げたグルシェフスキー氏のコメントも頷ける。
トルコリーグ挑戦
そして今季。7月頃から国外移籍の可能性が報じられ、早くからベシクタシュの名が取りざたされていた。おそらく移籍金をめぐって交渉が長引いたが、8月21日に正式に移籍が決まった。移籍金は500万ユーロとのこと。トルコ1部リーグは今シーズンから外国人枠のルールが一部改正され、「テュルク系の国家(アゼルバイジャン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、トルクメニスタン)」の選手は外国人扱いにならなくなることもプラスに働いた模様。トルコを代表する強豪チームで、ついに「安住の地」を見つけるのか、それとも「究極の便利屋」を続けるのか。この先どのようなキャリアを歩んでいくか楽しみだ。
なお、移籍交渉中にロシア1部が開幕、3試合だけ出場しCSKAを去ったが、その時は左サイドハーフだった。ベシクタシュでは加入後すぐにUEFAヨーロッパリーグ予選のディナモ(キーウ)との試合に出場。初戦でデビューゴールを挙げている。後半頭での投入直後は左サイドバックで入ったが、後にポジションを一列上げ、後半ロスタイムで決勝点を記録。いきなりトルコのファンに得意のプレーを見せつけた。
その他もろもろ
当然ながらカザフスタン代表でも中心選手で、2018年のデビューから現在まで一貫して攻撃的なポジションでプレーしている。メインポジションはなんとセンターフォワードと左右のウイングで、通算得点12は早くも歴代2位。中央アジアの旧ソ連構成国で唯一UEFAに加盟し、苦戦の続く同国をキャプテンとして引っ張る。目下のEURO2024予選では、ここまでデンマークやスロヴェニアを抑えて本戦出場圏内の2位。1992年の独立後初の国際大会出場に向け、彼の力は欠かせない。
また偶然にも、これまで多くの中央アジア出身選手とチームメイトになってきた。ロストフでは前述の通りウズベキスタン代表のショムロドフと、CSKAでは2021-22シーズンまでロシア代表のイルザト・アフメトフ(ビシュケク出身で民族的にはウイグル人)と、2023-24シーズン開幕からベシクタシュ移籍までのわずかな期間にウズベキスタン代表のファイズッラエフと同僚だった。自身にアタランタ移籍話が浮上した際には、当時ジェノアにいたショムロドフにイタリアについて助言を乞い、アフメトフとは現在も連絡を取り合うなど仲がいい。また、ファイズッラエフにはCSKAの施設や選手を紹介し、チームになじむ手助けをしたという。彼の境遇を、20歳でロストフにやって来た自身の姿と重ねたのかもしれない。
本人や親族の名前を見て気づく方もいるかと思うが、ウズベク人のルーツも持つ。父方の曽祖父が、現在のウズベキスタンのナマンガンからタラズに移住したという。バトゥルジャン氏によれば、彼には「ウズベク、カザフ、タジク、ウイグル、ウクライナの血が流れて」おり、ウズベキスタンに暮らす親戚もいるという。自らのナショナリティについて他人からよく聞かれるようで、うんざりしているという。バトゥルジャン氏は彼の意思を代弁するかのように「生まれも育ちもカザフスタンだから、私たちの祖国はカザフスタンです」と話している。
何かとデリケートな話題だが、こんなエピソードもある。タラズの育成組織在籍時の13歳の頃、パフタコルのユースチームから勧誘を受けたことがあった。入団の条件は「ウズベキスタンの市民権を取得すること」だったため、祖母のムハッバト氏が猛烈に反発し、破談になったという。ベシクタシュでは、早くも現地のジャーナリストに「マスアクの代わりには、ウズベキスタン人のザイヌッディノフが起用されるだろう」と間違えられてしまった。
愛称は「バハ(Баха)」だが、家族や地元の友人には「バチョーカ(Батёка)」と呼ばれている。非常に物静かで控えめな性格とのこと。また礼儀正しく勤勉なところは、ハンディキャンプを抱えながら決して諦めることなく苦境を耐え忍んできた父親譲りだという。宗教的な理由で酒は飲まず、バックギャモンが好きというあたりはいかにも中央アジアらしいが、ラップやダンスミュージックが好きという若者らしい一面も持つ。
❷流転の男 イルザト・アフメトフ
イルザト・トグロコヴィッチ・アフメトフ
en:Ilzat Toglokovich Akhmetov
ru:Ильзат Тоглокович Ахметов
1997年12月31日生、キルギス・ビシュケク出身
利き足:右足
ポジション:MF
所属チーム:ルビン(2014-18)→CSKA(2018-22)→クラスノダール(2022-)
代表チーム:ロシア(2019-)
高い技術とトリッキーかつ俊敏な動きが特徴の、小柄な攻撃的MF。細かくステップを踏み、踊るように相手をすり抜けるドリブルと意表を突いたキラーパスが持ち味。本職はトップ下でプレーメーカー的な役割を好むが、必要に応じて両サイドでのプレーもこなす。ややボールを持ちすぎな点が玉に瑕だが、それを差し引いてもアッと驚くプレーで局面を打開する能力は現在のロシア1部でもトップクラス。
キャリア初期は将来を嘱望されたが、数々のスキャンダルにまみれ転落、信じがたい屈辱にまみれた。そうかと思えば新天地で復活、その後すぐに凋落と、若くして浮き沈みの激しい日々を過ごしてきた。しかし近年プレーにキレが戻ってきており、捲土重来を期す。
キルギス生まれ、ロシア育ち
生まれはキルギスの首都ビシュケクだが、民族的にはウイグル人。キルギスには総人口約700万人のうち1%ほど、およそ7万人のウイグル人が住んでおり、ビシュケクには同国最大のコミュニティがある。父トグロク氏はカザフスタン2部リーグでプレー経験のある元サッカー選手で、20歳で徴兵されたのを機に引退した。2歳の時に父から与えられたボールを蹴り始めたアフメトフは、地元ビシュケクのチーム、アルガのジュニアチームで本格的にサッカーを学ぶ。その後同じビシュケクのドルドイに移る。
ここまではごく普通のサッカー少年だったが、10歳のときに運命が一変する。ドルドイの一員としてロシアのトリヤッチで開かれた国際大会に参加。そこでのプレーが評価されてユーリー・コノプリョーフ・アカデミーから勧誘される。すぐに新世界には飛び込まず、大会に参加するたびにアカデミーを訪問。2度訪れた後、12歳の時についに家族と離れ単身ロシアに移り住んだ。当時国内最高と評されたサッカースクールで寄宿生活を送りながら、勉学とサッカーの毎日を送り技術を磨くと、2014年、ソチで行われた大会でルビン(カザン)のスカウトの目に留まる。当時アカデミーが深刻な経営難に陥っており、次々と選手が新たな受け入れ先を得て退団する中、当時16歳の彼もルビンに移ることにした。
「カザン・メッシ」の出現
当時のルビンは黄金時代を築いた名将グルバン・ベルディエフの長期政権が終わり、若手選手の発掘に力を入れていたところだった。加入当初はユースチームでプレーしていたが、すぐにリナト・ビリャレトジノフ監督に見出されトップチームに。
練習で「先輩」たちにも引けを取らないプレーを見せ、その才能を確信したビリャレトジノフ氏の抜擢で、2014年9月24日のロシアカップ、ルチ・エネルギヤ戦の試合終了間際にピッチに入り、トップデビューを果たす。この時16歳8カ月24日、これは今なおルビンの最年少出場記録である。翌月にはリーグ戦でも初出場を飾る。
デビューシーズンは9試合に出場、リーグ最終節には、前日にЕГЭ(ロシアの高卒認定試験)を受験してから臨んだ。
翌2015-16シーズンには彼を買っていたビリャレトジノフ監督が解任。後任のチャールイ監督は前任者ほど出番を与えなかったが、それでも中盤の交代要員としてメンバー入りの機会は大きく増えた。さらに15年11月にはUEFAヨーロッパリーグのリヴァプール戦に出場、貴重な経験を積む。
翌年はスペイン人のハビ・グラシア氏が就任。ブレイクスルーとはいかなかったが出場機会を増し、短い出場時間で随所に好プレーを見せた。18歳ながらプロ契約も締結、年俸はこの若さでは異例の30万ドルと言われた。ルビン加入時から選出されてきたロシアの年代別代表も、飛び級でU-19代表に召集されるなど順調に成長していった。小柄で俊敏、足元に吸い付くようなボールコントロールから、プレースタイルは違うが「カザン・メッシ」とあだ名された。早熟の才能はロシアのサッカーファンの評判となり、そのプレーを「ピルロのようだ」と評する記事も出た。
キャリアの暗転
しかし、ここで一つ目の試練が訪れる。
トップデビュー4年目の2017年、かつてチームの指揮を執っていたベルディエフ氏が監督に復帰。彼を高く評価していたベルディエフ氏は、新シーズンは彼をメインチームに入れようと考えていた。そんな彼がプレシーズンのオーストリア合宿から突如姿を消したのはその直後だった。表向きには「コンディション調整のためリザーブチームに合流」とされたが、負傷や病気の情報は一向に出てこない。やがて一つの報道がもたらされた。「強制送還されたのは実際には前のシーズンからからチームと契約でもめていたからである」。
彼はチームと2016年9月付で、2021年まで契約を延長した。しかし契約書類は昨シーズン終了時点(おそらく2016年5~6月頃)の日付になっていた。
彼には9カ月分の給与未払いがあった。そこでシーズン終了後にロシアサッカー連盟の紛争解決局に異議申し立てを行った結果、チームから未払い分の支払いを取り付けることに成功。ルビンとは未払い給与を支払った時点で契約延長となり、異議を取り下げることになっていた。しかしその取り決めを無視してアフメトフ側はさらに負債(=未払い給与)の利息支払いと「翌シーズンは全試合の半分に起用されなければ、30万ユーロの追加支払い」も要求。請求自体は権利に則って行ったものだが、ルビンにとっては寝耳に水。「負債は全額支払い済みである」として要求の取り下げを求めるもアフメトフ側が拒否。拒否したのがちょうど先のオーストリア合宿中だったため、懲罰としてトップチームから追放されたというのである。
結局アフメトフはリザーブ送りにされたまま2017-18シーズン開幕を迎えた。しかし2017年11月から2018年3月までにトップチームでリーグ戦3試合に出場していることから、契約延長できていない中で何らかの形でチームと折り合いをつけたようだ。それでも開幕から20試合近くをロスしており、伸び盛りの時期にこれだけでも十分厳しいが、彼をさらなる苦境が襲う。
前代未聞の「人事部勤務」
ちょうどこの年、ルビンはМАУ(地方自治機関)からООО(有限責任会社)にチームの法的地位変更を画策していた。予算が限られる従来のカザン市保有から、自由に予算が組める個人保有の新会社に移管することで、財政を健全化し、チーム再建を進める意図があった。これに伴い、既存の選手と再度ОООとしてのルビンとの契約を結び直していたのだが、かねてから契約延長で揉めているアフメトフは、新契約締結を拒否。1シーズンで2度目の契約トラブル発生だ。
2018年4月、練習計画を聞きにチームの事務所を訪れた彼に伝えられたのは、なんと「ルビンの人事部での勤務」であった。構想外どころか、チームからの追放である。
ルビンの言い分はこうだ。チームはこの時までに活動主体をОООに変更、ロシアサッカー連盟にも承認され、МАУはあらゆるスポーツ活動の権限を喪失していた。そしてアフメトフのみがМАУのルビン所属のままだったため、当然チームの施設を使うことはできないし、サッカー選手としての活動も許されない。この仕打ちに反発したアフメトフ側に対しルビンも態度を硬直。やれ恐喝だ、やれ労働法違反だと互いを非難し合い、紛争は泥沼化。両者の関係は修復不能に。「サッカー選手が人事部で勤務」という異様な事態ロシアサッカー界が騒然となる中、シーズンはそのまま終了。
出場試合数3、無得点、リザーブチームでは12試合で8得点。これが飛躍を期したシーズンのスタッツである。ベルディエフ監督は、この前代未聞のスキャンダルにただ困惑するばかりであった。
当時アフメトフが何を考えていたかは、このことについて現在まで口を閉ざしている詳らかではない。しかし、19-20歳の若者がこのような大立ち回りを独断で行うことは考えにくく、もっぱら当時の代理人のゲゲチコリ氏の指金とみられている。当時のルビンは前シーズンに行った大型補強の反動か財政的に不安定で、チームに不信感を持ち退団を考える選手が何人かいた。事実、FWのカヌンニコーフは2018年にOOOでの新契約締結を拒否し退団、後にSKA(ハバロフスク)に移籍している。
一方ルビンにとって、彼は育成組織から出現した逸材。みすみす(=安価なうちに)放出するわけには行かず、何としても向こう数年は自チームに留めておきたい意図があった。未払い給与も、ロシアサッカー連盟の仲裁が入るとすぐに支払われたことから、多少金をかけても手元に残しておき、投資額を超える価格で売りたい意図があったのだろう。
「若く才能豊かな選手はカネになる」と考える代理人に乗せられた若者、「若く才能豊かな選手を売ってカネにしたい」と考えるチーム。もっとも、発端となった「未払い給与の利息」は、そのまま数試合に出場すれば、出場給や勝利給ですぐに元が取れるような少額だったという。
「輝かしいキャリア」どころかサッカー選手かどうかも怪しくなってしまったアフメトフ。ただ手をこまねいているわけにもいかず、再び代理人のゲゲチコリ氏とともにロシアサッカー連盟の紛争調停局に訴えた。ベルディエフ監督はチームに残るよう個人的に説得を試みたが、それも虚しく5月にルビンとの契約解除に合意した。
リーグが規定する自由契約期間を過ぎていたため退団はできず、夏の移籍期間まで無所属のままチームを探すことになった。ゼニト(SPB)の練習に参加しセマーク監督の高評価を得るも契約には至らず。ここでもネックになったのは「カネ」だった。
結局、紆余曲折を経て、7月の移籍期間最終日にCSKA(モスクワ)に加入。来たる2018-19シーズンは無事プロサッカー選手として迎えることができた。
CSKAのヤングガンズ
当時のCSKAは、モナコに移籍した若き司令塔アレクサンドル・ゴロヴィーンの後継者を探していた。チームを率いるヴィクタル・ハンチャレンカ監督は、実績の少ない若手選手を大胆に起用し、ダイナミックな攻撃で結果を出すスタイルで評判となり、当時ロシア最高の青年指揮官と言われた人物。
ヴィチーニョ、ゴロヴィーン、ナトホ、ヴェアンブロームといった中盤の実力者が抜け、さらにチームの柱ザゴエフを怪我で欠く中、アフメトフはすぐにハンチャレンカの信頼を勝ち取り、3-5-2のインサイドハーフという天職を見つけた。突如覚醒したFWチャーロフの活躍もあり、CSKAは戦力ダウンを感じさせない戦いで4位に入った。
アフメトフはこのシーズンリーグ戦26試合に出場。初めてフルシーズン主力として戦い抜き、ハードワークと素早い攻撃という基本スタイルのチームにあって相方のヴラシッチと共にチームの攻撃の全権を担う活躍。昨シーズンの鬱憤を晴らすかのような溌剌としたプレーで評価を大きく上げた。シーズン終了後にはロシアサッカー連盟が主催する年間最優秀若手選手賞「ペールヴァヤ・ピャチョールカ」にも選出された。
また、リーグ戦と並行して行われたUEFAチャンピオンズリーグのグループステージでは、サンチャゴ・ベルナベウでレアル・マドリーに勝利。アフメトフも90分フル出場で歴史的偉業に大きく貢献している。彼のキャリアのハイライトと言えるだろう。
20歳にしてどん底を経験しながら、わずか1年後に復活したアフメトフ。後に詳述するがこの年にはロシアフル代表にも選出され、さらなる飛躍が期待されるシーズンとなった。
しかし、栄光の日々は長くは続かなかった。ここで2度目の試練が訪れる。
再度の没落
彼は不運な星の下に生まれついてしまったのか。ロシアサッカー界にその名を知らしめた2018-19シーズンにも、後のキャリア狂わせる「悪い種子」が撒かれていた。
2018年11月14日のゼニト(SPB)戦で接触時に左肩の関節を痛めた。続くリーグ戦3試合とデビュー予定だったロシア代表の試合を欠場した後戦列に復帰する。そのままシーズンを終えたのだが、負傷が完治しないままだましだましプレーを続けていた。結局オフになっても肩の痛みは取れず、翌2019-20シーズンは全力でプレーできない状態で開幕してしまう。
さらに、チームの役割変更が彼に追い打ちをかける。メインの布陣が昨季の3-5-2から3-6-1に変わり、ビヨルが務めていたアンカーをなくし、アフメトフを含む2センターが中盤の守備を担うこととなった。中盤での果敢なタックルや思い切りのいいインターセプトも得意ではあったが、それは敵陣での「攻撃的な」守備でのこと。不慣れなタスクで気の毒ではあるが、専門外の仕事で相手の後手を踏み、チームをしばしば危険に晒した。またポジションを一列下げ守備の負荷が増したことで、得意の攻撃力を披露する機会まで減った。時にはアンカーを置く3-5-2で戦い、彼がアンカーに入ることもあった。
さらに、昨季から苦しんできた肩の痛みが限界に達し、ついに22節から手術のためドイツに渡りチームから離脱。その間にシーズンは終了。称賛を浴びた昨シーズンとは打って変わり、厳しい批判を浴びた1年となってしまった。
肩のリハビリに思った以上に時間がかかり、戦線復帰は翌2020-21シーズンの中盤戦となった。復帰したもののフィットネスは大きく落ちており、さらにハンチャレンカ監督から引き続きホールディングMFの役割を求められた。状況は好転せず、昨季以上に不甲斐ないプレーに終始し、ファンからのヘイトを一身に集める存在に。優勝を求められる強豪チームにあって、6位フィニッシュの戦犯のような扱いを受けた。
そのシーズン限りでハンチャレンカは解任。翌2021-22シーズンは、後任のA.ベレズツキー監督が4-3-3のシステムを敷き、中盤はよりソリッドなオブリャコーフ、クチャーエフ、ムーヒン、ザイヌッディノフらを好んだため、彼の出番は徐々に少なくなっていく。かつてはロシアのゴールデンボーイと言われたが、その後3シーズンの不甲斐ないプレーでCSKAの嫌われ者となった。スキャンダルでダーティなイメージもついてしまい、彼のことを熱心にフォローするファンはすっかり減ってしまった。
復活の兆し?
2022年夏、契約延長の話もなく自由契約となりCSKAを退団。次の移籍先は強豪クラスノダール。2008年設立と歴史は浅いが、オーナーのガリツキー氏(実業家で、ロシア最大のスーパーマーケットチェーン「マグニート」の創設者)のサポートで急速に力を付け、10年足らずで優勝争いを演じるまでになった新興勢力である。
クラスノダールは、チームの「格」でいえばCSKAと同等かそれ以上である。上記のグリーシンのように、フリーで加入したCSKAの控え選手に期待をかけるファンはあまりいなかった。
シーズン開幕当初は、4-3-3のインサイドハーフ、または両翼の控え選手だったが、得意な攻撃的ポジションでの起用で少しずつ往年のキレを取り戻していった。シーズン途中でイヴィッチ監督に交代すると信頼を勝ち得たのか、出場機会が増えチーム内での存在感も高まっていった。
なお、カップ戦ではこんなスーパーゴールも。
結局2022-23シーズンは当初目されていた控え選手から準レギュラーの座を手に入れ、リーグ戦全30試合中27試合に出場。リーグ戦の順位こそ6位だったが、チーム史上初のカップ戦決勝進出に貢献した(準優勝、皮肉にも古巣CSKAに敗れた)。
そして迎えた2023-24シーズンも、中盤の3枚はスペルツィヤン、クリフツォーフ、チェールニコフと陣容が固まっている中で両ウイングとしてオルセグン、ジョアン・バチらとレギュラーの座を争う。若くして波瀾万丈のキャリアを送り、その姿はかつて期待されたようなものではない。しかしまだ25歳で能力も折り紙つき。ここからいくらでも挽回できると信じている。
しかし、悲しいかなこんなキャリアになってしまったのは代理人の手によるところが大きい。先にも少し述べたが、彼の代理人であるイラクリ・ゲゲチコリ氏は元々はルビンの役員で、GMまで務めた人物。後に代理人業を始め、ルビンに顔が利くことからユース上がりの選手を多く顧客に抱える。キャリア初期に大きなスキャンダルを2度起こした件、ルビンと契約解除した2018年にゼニトへの移籍が破談になった件、どちらにもゲゲチコリ氏が大きく関わっている。さらに、CSKAと契約を更新しなかったのも年俸の折り合いがつかなかったからという情報もある。顧客の市場価値を上げる能力に関しては優秀なのかもしれないが、その手法は荒っぽいとも言える。真偽は不明だがあまりよろしくないことに手を染めていた過去も持つとのこと。
アフメトフが本来の姿を取り戻しつつあるのはいいことだが、ピッチ外に一抹の不安があるのは事実である。
代表チームと個人的なこと
生い立ちの項で述べたように、彼の出身地はキルギスのビシュケク。しかし少年時代からずっとロシアに居住していることもあり、彼はロシアの市民権もパスポートも持っている。コノプリョーフ・アカデミー入学の条件が「ロシアの市民権取得」だったとの噂もある。ロシア代表としてのプレーするには何の障害もない。
より高レベルな環境を求めてロシアに軸足を置いてプレーする選手は旧ソ連圏では割とよくあることである。しかし「祖国を裏切った」として、2019年のロシア代表デビュー以来、これまでキルギス国内から幾度となく心無い言葉を浴びてきた。
キルギスサッカー連盟は早くから地元の逸材である彼の代表入を画策していた。しかし彼はロシアからの誘いを待つかのように、キルギスからの誘いを断り続けた。そして2018年ロシア代表からの招集に応じ、肩の怪我から復帰した翌2019年にデビューした。
しかし、本人はキルギスへの愛着を失ったことはなく、これまで幾度となく「祖国はキルギス」と述べている。アイデンティティというのはザイヌッディノフの項でも述べたがとてもデリケートな話題である。自分の信条が理解されない辛さは察するに余りある。
なお、出身地のキルギスだけでなく、自らの民族であるウイグル人としての帰属意識も持っている。どういうコンセプトなのかは謎だが、彼が「ロシア代表のウイグル人」であることをアピールするだけの動画もYouTubeにアップされている。
これまでの経歴からヤンチャな印象を持たれがちだが、ピッチを離れると物静かな青年である。こちらも典型的な中央アジアの若者らしく敬虔なムスリム。CSKA時代にはチェチェン共和国にあるヨーロッパ最大のモスクである「ムスリムの誇り」モスクを訪れた。モスクワのカフェでイフタール(ラマダーン月に日中の断食を終え、日没になり最初にとる食事)を提供したこともある。酒やタバコは一切やらず、ザイヌッディノフとシーズン中にラマダーン月の断食を行い、将来のハッジ(メッカ巡礼)を「ムスリムの義務」と夢見る。
毎年年末年始は里帰りし、ビシュケクで家族と過ごす。2023年の夏のバケーションは、イシク・クルで家族や親戚とのんびり過ごした。インタビューでは熱っぽくキルギスの魅力について語ったり、好きな食べ物は母が作ったカボチャ入りのマンティだったりという、結構かわいらしい一面もある。ロシアに渡ってからは車を持つこともなくひたすら練習に励み、ビシュケクの家族のために買ったマンションの部屋がこれまでにした最も高価な買い物だという。
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