未亡人日記64●熊本の夜
新幹線さくらを降りてすぐ、ホテルにチェックインした。
ポツポツと降り出していた雨は、部屋からロビーに戻ってくる間に篠をつく大雨になっていた。線状降水帯が発生する恐れがあります、と、ロビーのテレビが言っている。
午前中、新幹線に乗る前にお墓参りをした時は、雲が厚くて蒸し暑いけれど、雨が降る予感はなかった。広い霊園で雨だったらアウトだった。
こんなに激変する天気に、「私、持ってるな」と心の中で自分を讃える。(もっとも、新幹線で100キロ以上移動しているけど)。
いつも一人旅なので、心の中に言葉をたくさん溜めている。
どうしようか迷った。駅ビルに戻ってお土産でも見る? ホテルでのんびりしてもいいのだが、一人旅のホテルは暇である。
なので、雨をおして、予定通り出かけることにした。
ホテルからすぐに市電の駅があり、長蛇の列。1本やり過ごして、次のに乗る。ラッシュアワー並みに混んでいる。停留所に着くと、またどんどん人が乗ってくる。スーツケースを持つ観光客多し。もっとも私も観光客だけど。私は軽い乗り鉄なので、市電に乗るだけで、まず観光の第一目標が達成されるのは、いいよね、とまた誰でもなく自分に話しかける。
中心街の駅で降りる。雨は小降りになっていて、やがて止んだ。
なんかちょっと、愛媛の松山を思い出すな。百貨店、アーケードの感じ、その間の目抜通りの市電。
松山に子どもと行ったのは夫が死んだ夏だった。
あの時どうやって生きていたのだろう。
痛すぎると痛点が感じられなくなるように、そんなふうにあらゆるものを麻痺させて生きていたかもしれないな。死にたいと思いながら毎朝起きていた。夏の朝の光。子どもがいることで私は仕方なく自分をルーティン化させていたんだろう。そこに救われるものもあったけれど、それが嫌だった。
道後温泉に向かうアーケードの中にみかんジュースの蛇口があったな。16タルトの店もあったな、などと熊本を歩きながら松山を思い出し、あ、道後温泉は坊ちゃんだし、熊本は三四郎だよね、夏目漱石繋がりだ、と気づいて、でもそれを誰にいうこともできないので自分の中に静かに落とす。
お目当ての店は、神社への参道の側にあった。
「こんにちは」と奥に長い店の入り口で挨拶する。
通りが見渡せるガラス前は角打ちらしい。奥がバー。
「いらっしゃいませ」と渋いトーンの店主の声がする。
壁のフランスのブルーが鮮やかだ。フランスが好きな人ならすぐ、あ、これはフランスのブルーだ、とわかる。
サンダルの足が痛かったので、迷わず奥のバーへ。
「値段違いますけど大丈夫ですか?」と聞いてくれるのも良心的だなあと思いつつ「そんなに値段が違うんですか?」というとチャージがあります、お酒の値段も違います、と説明。
「足が痛いので座ります」と私。
細長いカウンターの一番奥に通される。
初めての客のことはおそらくどこから来たのか知りたいだろうなと思って
「ここのお店を熊本の友達から紹介されたので、尋ねてきました」「どちらからですか?」
「東京です」
その友達は、友達というか知人は、フランスで一度だけ会ったことがある人なのである。この店を紹介してくれるとき「熊本に素晴らしいワインがあって、素晴らしいお店でそれが飲めます」というので熊本に行ったら絶対に尋ねようと思っていたのだった。
そんな話をしながらいい気分でワインを三杯も飲んだ。店主は当然だがフランス好きで、また飛行機好きでもあって、この店にAとJのパイロットが来て飛行機のエンジン音の好き嫌いについて話し合っていた、などというエピソードがつまみになった。
二つぐらい席が空いている、でも隣に座った男性が「おねえさんは日本酒も好きですか?」というので「はい、日本酒も好きですよ」というと、素晴らしい店があるからぜひ行ってくれという。店名と、簡単に場所を説明してくれる。
いやもう、明日フェリーに乗るし、早いし、多分行かないだろうと思いつつ、教えてもらった手前、一応Googleで調べて保存する。(飲み屋ではなく、中華の店で行きたい店もあった)。
その男性は二杯飲むと帰ってしまった。私がまた唯一の客になる。
しんと時間が冷えてきて、さっきまで喋っていた言葉が自分の中にさーっと戻ってくる。
お腹が空いてきた。
お勘定をして、テクテクと歩いて目当ての中華屋にたどり着いたのに
「今日はもういっぱいで8時でラストオーダーです」というではないか。
アーケードの商店街の中の雑踏に一人取り残されて途方にくれる。このままホテルに帰るのも癪な気がしたので、先ほどの日本酒の店に行くことにした。
だいぶわかりにくいのでぐるぐると同じところを歩いた。
繁華な、国分町を小さくしたような、去年の夏に行ったススキノのラーメン屋のそばのような、栄の雑居ビルのような地下にその店はあって、一人で入るのにはやや躊躇ったのは事実。
狭い階段を降りていくと、意外に清潔なしっとりした空間で、カウンターには店主が一人、20代と思しきカップルがカウンターにいて和やかに飲んでいる。
「こんばんは」と挨拶して
「一人ですがいいですか?」と言うと、どうぞどうぞ、と後ろで一つ縛りの店主が迎えてくれつつ
「あー、さっき電話で」と言うので
「え? 電話してませんよ私」
予約の客と間違えられているのかと警戒すると(席がないのかな?)、
「いや、電話があったんですよ、女性のお客さんが一人、行くかもしれないからって」と言うではないか。でも、その人が誰かは店主はわからなかったそうだ。
ワインバーの彼だ。私がきっと行くだろうと思ったのか、一人旅の私を案じてくれたのかわからないけど。
★★
夏の夜風になぶられて市電を待っている。
店は推薦者の名誉を裏切らない良い店だった。
酒を飲むという行為で繋がっていく小さなおせっかいを思い出すと、思わず笑ってしまう。
揺られて帰りながら明日のフェリーは予定通り出るかな、と思っている。
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