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未亡人日記49●一筆書きの旅   その1 



介護帰省の道中の退屈と憂鬱を軽減するために、電車のルートを変えたり、高級車両に乗ったり、途中の街で下車してご飯を食べるということをやっていたが、だんだん手詰まりになってきた。そこで乗り放題チケットを握りしめて、遠回りして帰省してみることにした。


午前中は子供の学校の集まりがあったので、JRの駅から出発したのは昼少し前。いつも新幹線に乗る駅だが、今日は行き先が違う。今日は北に向かわず、左の方向に曲がって西に行くのだ。海に突き当たったら、そこから夜の船に乗って、北前船のルートを北上する。朝には港に着く。そこからまた電車を乗り継いで、大体24時間後には目的地についている予定。

早くつかなくてもいい旅。

この一筆書きルートを思いついた時ワクワクした。時刻表を調べるのは大好きなので、何回も頭の中でこねくりまわしつつ、でも一体なんのために私はそんなことをするのだろう、と自分でツッコミを入れたりして。そして結局、やってみたい気持ちが勝り、今、私は、いつもと違う新幹線に乗っている。

混んでない車内で山の中の風景を楽しみながら、このまま港のある街までずーっと乗って行ってしまうのは、もったいない気がしたので、途中下車することにする。大きな川のある街。大体14時半ごろだった。


ある軍人の記念館があるのでそこに行ってみようと思ったのだ(私の母は、その軍人と同じ誕生日で、子供の頃から何回もその話を聞かされて刷り込みされているのだった。)

そして遠い昔を思い出してみたら、この街に住んでいる女の子と文通をしていたことがあった。「手術して入院するので、もう手紙を書けないと思います」という便りを最後に文通は終わったのだった。

小学生の頃の話。その頃は「文通」という行為が普通にあって、私は日本中にペンフレンドがいたが、ペンフレンドと会ったことはない。子どもにはそんな遠くの街を自分が訪れたりする未来を想像できなかった。
今は自由だ。私はどこへでもいける。


西日が駅にあたって、駅前のロータリーから街のメインストリートがのびて、それがしんとしている。駅の中にはそれなりに人がいるのだが、街に人影が少ない。そういう街をたくさんみてきた。子供の試合で訪れる新幹線や特急の止まる地方の駅は、日本全国、大体そんな感じ。城跡があって、アーケードがあって、人がいない。

途中に、戦争の記念館があったので入ってみた。きちんとした化粧の、上品な声を出す老婦人が寄ってきて、簡単な解説をしてくれた。「どちらから? ここにはどうしていらしたの?」。私が目的の軍人記念館を伝えると、彼女は私の持っている地図を突き合わせて、道案内をしてくれた。その手前にある、幕末のなんとかいう記念館もあるからそこもぜひ行ってくださいという。

歩いてほどなくそのなんとか記念館はあって、小説にもなっている人物の記念館なことがわかった。その瞬間、実家の本棚に挿してあったこの小説の背表紙をぱっと思いだした。でも、読んだことはない。正直にいうと、私はこの作家の平坦な文章が苦手なのだった。

二百円のチケットを買って、さて何から見たらいいのか? と立ち止まっているとスーッと男性が近づいてきて、「ボランティアなのですが、ガイドいたしましょうか?」と丁寧に言ってくれる。私の読みでは、退職した校長先生とか、元市役所の職員とか、そう感じの仕事柄の誠実さがあった。

ガドリング砲の解説から始まって、この街が幕末に戦火で焼け爛れた話をしてくれた。だから街の人たちは、この記念館の人物のことは毀誉褒貶半ばし、記念館ができたのはごくごく最近のことなのだと言った。先ほどの空襲記念館の老婦人を思い出した。この街では忘れないように、丁寧にこうやって戦争を記憶しているんだな。

出ると、もう、きつい西日になっている。
シャッター通りに近い国道を超えた商店街の先に、軍人記念館があって、入り口のベンチで、ライブハウスの出演のことを話し合っているミュージシャンぽいおじさんが二人いたが、館内にはほとんど人がいなかった。コロナで入場制限をしています、とホームページには書いてあったので、私は観光バスが団体を乗せて乗り付けるような大きな記念館を想像していた当てが外れた気持ちと、まあ、そうだよね、という気持ちを両方確認した。

展示室の真ん中に軍人が撃ち落とされた時に乗っていた飛行機の左翼が展示してあった。


人は、自分の生まれ育った町に自然に影響を受けているのだろうか。この軍人の精神の下敷きになったのは旧幕軍の家老の精神で、今でも街の矜持はここにある。

100年経たないうちに二度の戦火に蹂躙された街から輩出された財界や教育界の偉人たちを偲ぶモニュメントが、人のいない駅前のアーケードに所在無げにたたずんでいる。


でも、戻った駅の中には土曜日らしい人混みがあった

県内の日本酒の蔵元の酒が自動販売機感覚で試飲できるスペースがあって、五百円払って好きなものを飲める。5枚のコインを渡してくれる。たいていの日本酒は1枚で試飲できる。希少なものだと2枚や3枚もある。なんというシステム! 考えた人すごいな。日本酒の知識がないので、うんちくを披露している若者と飲みながら少し喋った。これから、自分は日本酒の仕事を始めるんです、杜氏になるんです! と結構語っていたが「あ、やばい」と、新幹線に慌てて走って行った。


左に夕日を見ながら、新幹線は走った。通過する駅、昔ここの街から来た友達がいた。

受験勉強で「よんとうごらく」を実践したのに浪人してしまった、と彼女が言っているのをびっくりしながら聞いていた記憶(私にはそんな猛勉強の想像がつかない)。大学に入ったのに、途中で故郷に帰ってしまった彼女の実家に、電話をしたら「姉は亡くなりました」と電話口で言われたと言っていた別の友人。あれはまだ20世紀。全て、前世の記憶そのもの。

彼女の街の夕方を通りながら、もう遠くなってしまった彼女の幼い笑顔を思い出している。


フェリーに乗るまではまだ時間がだいぶある。駅のタクシー乗り場で車に乗り、一番の繁華街で何か食べたいんですが、推薦してもらえませんか? とお願いすると、タクシー運転手が寿司割烹はどうか? と提案してくれたので、そこに行ってもらうことにした。

ビル街を抜け、大きな川を渡る。どんな町にも川が流れている。夕方だ。

タクシーの中から電話をして予約を入れる。カウンターはもういっぱいなので二階の座敷でもいいか? と聞かれる。入れ込み風の座敷。テーブル席。座敷には私一人だった。

知らない町の知らない夕暮れ。
なんで私はここにいて、一人で夕ご飯を食べているのか、と笑い出しそうな気持ちになった。

少しすると、2歳ぐらいの子供を連れた若い夫婦が通された。勤務地の話や株の話をしながらご飯を食べている。

帰りしなに覗いた空の座敷に、立派な油絵、能仕立てのシェイクスピアのような味わいの油絵が床の間を占領しているのが見えた。素材が和風でタッチがこってりした油絵具。何号というのか、とても大きい。きっと誰か名のある人の絵なのでは? と思って中居さんに聞いてみたが、「さあ」と言われて、あまり関心がないようだった。

もうおなかはいっぱいなんだけど、マティーニで締めたいので、古い街をうろうろし、古民家の堂々とした佇まいの店に恐る恐る入って、1杯飲んだ。

8時半ごろだったので、そこからタクシーを拾い、港へ行ってもらう。

運転手は「もう、船、着いていてますね」と遠くから見て言うのだが、どこに船がいるのだろう。暗くて見えない。十五夜だが月の気配がまだない。

博多港でずっと前に見た海外からの豪華客船、あれは大きかったなあ。

これから1時間待たないと乗船できないし、出発はさらに1時間後だ。持ち歩いていたが、今日、一回も開いていなかった「すべての月、すべての年」(ルシア・ベルリン)の単行本、中の短編を待合室のベンチでやっと読んだ。
これも夫を亡くした一人の女が彷徨う話ではある。

待合室のベンチにいる人を観察すると、家族連れか、バイカーか、カップル。

私のような軽装で、ひとりぼっちの女はいない。
怪しい。
私は一体どこに行くんだろう。これから暗い夜の海に一人で乗り出していく。

でも、今日は満月だ。私は海の上で、船についてくる満月を見ることができるだろう。

(つづく)



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