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フェミニズムとナチズム


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  フェミニズムは、ナチズムと系統を同じくする思想である。というよりフェミニズムは、ヨーロッパに古来から伝わるヘイトの技法を継承している思想なのだ。まずは、人種差別思想の極北、ナチズムの理論書「我が闘争」を見てみよう。


 まずドイツについて。

 「アーリア人種(ドイツ人)はその輝く額からは、いかなる時代にも天才の神的なひらめきがとび出し、また認識として、沈黙する神秘の夜に灯をともし、人間に他の生物の支配者となる道を登らせたのあの火をつねに新たに燃え立たせた、人類のプロメテウスである。」

 

 「人類を文化創造者、文化支持者、文化破壊者の三種類に分けるならば、第一のものの代表者として、おそらくアーリア人種だけが問題となるに違いなかろう」


 次に、ユダヤ人について。

 

 「ユダヤ人はどのような文化形成力も持っていない。というのは、それがなければ人類の真により高い発展が不可能になるような理想主義が彼らには存在していないし、また存在したことがないからである」


 「この世界にユダヤ人だけがいるのなら、かれらは泥や汚物に息が詰まりそうになりながらも、憎しみに満ち満ちた闘争の中で相互にペテンにかけよう、根こそぎにしようと考えるに違いない。ただしかし、それはかれらの臆病さに示されている犠牲心の完全な欠如が、この場合にも、この闘争を猿芝居にさせてしまわなければの話である」

 

 「ユダヤ人は寄生虫」


 これが、ナチズムの基本の人種観だ。つまり、ドイツ人は絶対正義ユダヤ人は絶対悪、というわかりやすい善悪二元論に従って論理を構築しているわけだ。


 「ドイツ人は絶対正義、ユダヤ人は絶対悪」 

 

  「ドイツ人は神に選ばれた優秀な民族、ユダヤ人は腐敗した劣等民族」

 

 ヒトラーはまず、断固としてこう言い切ってしまう。そしてこの人種観を、なにがあろうが絶対にゆずらない。これは、「人間の集団を味方と敵に分け、味方を絶対正義とし、敵を絶対悪として分断する。そして、あとはひたすら敵にたいする憎悪を煽る」という、善悪二元論にもとずく差別思想である。これは意図して、テクニック的にやっていることなのだ。


 どの民族にも、良いところと悪いところがある。ある民族の良いところだけを拾いあげれば、その民族は輝かしい絶対正義であるかのように見えてくるし、逆に、ある民族の悪いところだけを拾いあげれば、その民族は憎むべき絶対悪であるかのようにも見えてくる。


 人間は、目の前にある物事の、ありのままを見ているわけではない。見たいものだけを見ているだけだ。だから、ある部分だけをひたすら強調すれば、それがさも全体であるかのように錯覚させることができる。こうすれば、人間の認識などいくらでもコントロールできる。嘘も100万回唱えつづければ、真実になってしまうわけだ。


 ナチズムのような人種差別思想は、この人間のもつ認識のあやふやさにつけこみ、凡庸でしかない存在を絶対正義へと、そしてありふれた存在を、絶対悪へと仕立て上げる。


 もっとかんたんに言えば、ある民族を被差別民に仕立てあげたいと思うなら、その民族のやった悪事をウソも交えて100万回、わき目もふらずにひたすら連呼し続ければいい。そうすれば大衆たちは、いずれその民族のことを、許しがたい悪の権化だと認識し、差別するようになるだろう。


 いたって単純だが、ナチスのやったことはそういうことだ。


 そしてこれは、ヨーロッパ人たちが古来からずっとやり続けてきたことでもある。


 「キリスト教は神の教え、異教徒は悪魔の手先」

 ここでもまた、キリスト教をカルト的に信じていた連中は、「自分たちを絶対正義、敵を絶対悪」に仕立てあげるという差別の論理をもちい、大衆たちの憎悪を煽りまくっていた。十字軍遠征、宗教戦争、魔女狩り・・・、これらの戦争と虐殺は、こういったヘイトの論理を煽ることにより引きおこされたものだ。真の目的は、金と権力である。

 

 人類は、枚挙にいとまがないほど戦争と虐殺をくりかえしてきた。しかし大半の人間は、そう悪い人間というわけではない。こうやって誰の中にも必ずある正義感と差別心を煽られ、狂わされてしまうのだ。すると、魔に魅入られたように、大衆たちは残酷なふるまいをしでかすようになる。


 人類が戦争と虐殺をおこすとき、そこにはかならず差別思想があった。そしてヘイトを意図的に煽る、キチガイじみた指導者たちがいた。というより筆者には、人類がいままでやってのけた戦争と虐殺とは、こういうヘイトを意図的に煽る、極悪人どもの手で引きおこされてきたような気がしてならないのだ。


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 フェミニズムこそは、このヘイトの技法を駆使する、人種差別思想の後継者である。フェミニズムの論理構成は、人種差別思想のそれ、そのものである。


 「女は絶対善、男は絶対悪」、「女は悪くない、悪いのは男」

 

 これはフェミニズムの基本の論理構成、まあ、憲法みたいなものだ。フェミニストたちは、つねにこの善悪二元論でもって男たちを断罪してきた。もうおわかりでしょう、これは、


 「ドイツ人は神に選ばれた民族、ユダヤ人は劣等民族」、「ドイツ人はつねに正しい、悪いのはユダヤ」

 

 というナチズムの善悪二元論と、論理の構成が同じなのだ。フェミニストは「男が悪い!」とつねに絶叫してきたが、これは「悪いのはユダヤ!」とつねに絶叫し続けていたヒトラーと、まったく同じなのだ。


 「人間の集団を絶対正義の味方と、絶対悪の敵に分ける。そして、敵にたいする憎悪をひたすら煽りまくる」という、ナチスのやったヘイトの技法を、フェミニストたちは忠実に踏襲している。

  

 根本にある論理も戦略も同じであるがゆえに、やっていることもまた、そっくりそのまま同じである。ドイツ民族の極右であるナチスと、女という属性の極右であるフェミニストは、その論理から戦略まで、何もかも同じやり方を採用しているのである。


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 お局様、というめんどくさい女たちがいる。女の嫌なところを凝縮した、いわば女の悪徳を体現した女たちだ。これと対になるのが、セクハラ親父である。この男たちもまた、男の嫌なところを凝縮した、男の悪徳を体現したろくでもない男たちである。


 お局様とは、陰湿で、女の負の性欲をもてあましている女たち。セクハラ親父とは、下品で、男の正の性欲をたぎらせている男たち。ともにおのれの性欲をもてあました、攻撃性の強い、異性にとってはやっかいな人間たちだ。


 この女と男の極北にいる人間たちの扱われ方をみれば、その国のいわば、男女平等のありかたがよくわかる。その属性の人間に特有の悪徳がどれだけまわりの人々に受け入れられているかが、その属性の人間がどれだけ敬意を払われているかの、目安になるからだ。


 このお局様とセクハラ親父がともに、煙たがれながらも存在を許されているのが、男女が平等にあつかわれている、健全な社会である。


 90年代くらいまでは、お局様もセクハラ親父も、ともに存在を許されていた。この点で、じつは男女平等だったといえる。しかし今ではお局様は、ますます意気盛んで手におえなくなる一方、セクハラ親父は、存在じたいがもはや悪となってしまっている。セクハラ親父など、女たちからは憎悪を、若い男たちからは軽蔑をうける、人非人のような存在である。


 女の悪徳を体現したお局様は、女も男も存在を受けいれているどころか、平身低頭しているありさまなのに、男の悪徳を体現したセクハラ親父は、あたりまえのように排除されている。これはいまの社会では、女の悪徳は表現することを許されているが、男の悪徳は表現することは許されていない、ということだ。


 くり返すが、その属性に特有の悪徳がまわりの人々にどれだけ受けいれられているかということが、その属性の人間がどれだけ敬意を払われているかということの、目安である。となればいまの日本は、男女の扱われかたがいちじるしく不平等に、女尊男卑的になっている、ということが見てとれる。


 さらに女たちは、ほとんど何をやってもいい。女特有の悪徳、陰湿さ、姑息さ、神経質さといったものをいくらでも表現し、男たちにぶちまけていい。女たちが嫌いな男に集団でいやがせして排除しても、隣に人がきただけで露骨にいやがるそぶりをしても、胸クソが悪くなるような陰口をたたいても、それは当たり前のこととして受けいれられている。


 しかし、男特有の悪徳、下品さ、粗暴さ、無神経さといった悪徳は、決して表現することは許されない。男たちが少しの下品な物言いをしても、激昂して怒鳴り上げても、それはキャンセルカルチャーの対象になる。また、一般の女も怒り狂う。


 女の悪徳は、いくらでもぶちまけていい。対して、男の悪徳は、すこしも表に出すことはゆるされない。この非対称さが、現代の日本だ。つまり、女たちはこう言っている。


 「お前たち男は、私たち女を少しも不快にしてはいけない。男の悪徳など、微塵も受けいれるつもりはない」と。


 男女平等の名のもとの、男女不平等になってしまっているわけだ。


               。。。。。。


 またフェミニストは、男のやる差別、暴力だけを糾弾し、女のやる差別、暴力は決して糾弾しない。というより、無かったことにしてしまっている。男のやる、ささいな失言でもキャンセルカルチャーの対象になるのに対し、女は暴力ですら、ほとんど何のお咎めも無い。


 「気娘をシャブ漬け発言」という、どうでもいいつまらない冗談も、キャンセルカルチャーの対象になり、社会的に殺されてしまう。数十年にわたる努力が、こんなささいな失言でフイになる。


 たいして、秘書の男に暴言を吐き、ひっぱたいた豊田真由子のような女は、ウソ泣きして謝ればそれで済んでしまう。しかも豊田のアレは、おのれの負の性欲を満たすためにやったことだ。女とは、弱い男をいたぶると性的快感を感じるという、特殊な性癖をもつ生き物である。これを、負の性欲という。(Twitterの鬼才、リョーマ氏の卓見)


 豊田は秘書の男を罵り、そのハゲ頭をひっぱたくことにより、性的快感を得て、その子宮を悦びでうち震わせていた・・・・。いわば豊田とは、脂ぎったセクハラ親父と、同タイプの人間なわけだ。あれは、セクハラ親父が秘書の女の子の体を触りまくるのと、本質的に同じことなのだ。

 

 公然わいせつ、いや、痴漢に等しいことをやってのけた人間が、テレビに出てのうのうと一席ぶっている・・・・、何ということだろうか!


 男のささいな失言には、社会的な死を。

 女の激しい(性的)暴力には、寛大な扱いを。


 男のやる差別、暴力は絶対にゆるされないが、女のやる差別、暴力はほとんど問題にならない。こ非対称さが現代の日本なのだが、この不公平さが、「女は絶対善、男は絶対悪」、「女は悪くない、悪いのは男」というフェミニズムの善悪二元論からきているのは、明白だろう。差別の論理で社会を規定してしまえば、出てくる結論は、ことごとく差別的なものになる。


 フェミニズムでやれば、女たちは男たちを押さえつけ、完全に支配できるというわけだ


               

              。。。。。


 「ギャルゲーで抜きながら、性犯罪を犯さずに平和に滅びていってくれればいい。そうすれば、ノイズ嫌いでめんどくさがり屋の男を再生産しないで済みますから」     

                      ~上野千鶴子~


 女性蔑視は許さない、と言いながら男性蔑視を平気でするのはなぜなのか? 現代の男なら、誰でも思う疑問だろう。じつはそれは、フェミニズムこそが人種差別思想からその論理の構成を拝借してきた、差別思想そのものだったから、というわけだ。


 「反差別」の大義を掲げる者こそが、じつは差別主義者だった。何の喜劇なのかと思ってしまうが、これはかつてのドイツで起こったことと、同じことではないのか?



 フェミニストのみならず女性文化人も、いや一般の女たちすらも、女性蔑視は許せないと言いながら、その同じ口からは男を蔑む言葉があたりまえのようにでてくる。女性差別は許せないと言いながら、嫌いな男をあたりまえのように差別する。そして、性暴力は許せないと言いながら、男に対する精神的暴力は、あたりまえのようやるのだ。


 ただ女たちは男たちを好きと嫌いに分け、嫌いな男たちに激しく差別しているだけで、やっていることは差別主義者のそれと、何の変りもない。たいしたことでもない些細なことで、現代の女たちは目を血走らせて怒る。一言たしなめればいいだけのことに、激しい罵詈雑言を浴びせてくる。その狂気じみたさまに、怖気を感じたことのある男は多いはずだ。


 こういった見当違いの激しさは、彼女たちの差別心からきている。目の前の出来事に、自分の中に内向している憎悪を投影してしまっているから、その怒りは10倍になってしまう。お互い様という言葉は、現代の女たちには通用しない。彼女たちはフェミニストに、そしてマスメディアに男に対する憎悪を煽られ続けているから、なにもかもが過剰になる。


 「女は絶対善、男は絶対悪」、という差別的なフィルターを通して男と女を見てしまっているから、もはや女たちは、物事を正しく判断できない。


 「反差別の差別思想」にかぶれた女たちが、どこまでも差別的に、暴力的に、狂信的になっていく。かつてのドイツで起こったことが、属性だけを変え、この日本で繰り返されている。


 ナチスに乗っとられた戦前のドイツでは、ユダヤ人をドイツから追放しようとし、結果的に大虐殺がおこった。同様に日本の女たちも、現代の被差別民である「うざいおっさん」、「キモイ男」を執拗に視界から消そうとしている。そのためには、暴力的なやり方すら辞さない。


 いまどきの女たちの「キモイ男にたいする加害には、情け容赦というものが、いっさいない。彼女たちはまるで虫けらをふみ潰すような酷薄さでもって「キモイ男」を加害をするが、これは、差別主義者に特有のものなのだ。相手が人間ではないのなら、情容赦けなどかける必要はないということだ。


 思想は、人を狂わす。思想は、善人をも悪人へとかんたんに変貌させてしまうのである。


               。。。。。


  第一波フェミニズム運動は、19世紀にフランス人権宣言に触発されておこった。続く第二波フェミニズム運動は1960年代。1960年代とは、まだまだ白人至上主義思想が盛んだったころだ。


 白人至上主義思想の論理構成は、「白人は神に選ばれた優秀な人種、有色人種は劣等人種」である。おそらく当時のアメリカあたりの悪賢いフェミニストは、気つ”いてしまったのだろう。この差別の論理をフェミニズムにあてはめれば、女たちの差別心に火をつけることができる。そしてその激しい差別心は、フェミニズムを爆発的に世界に広めていくことになるだろう、と。


 フェミニズムとは、「こんなに悪い男たちに、女たちはさんざん差別されてきました」、というフィクションをもとにする世界観である。そしてその後に、「だから利権をください」、という要求が来る。この思想、運動の本質は利権闘争であり、また男と女という属性間の権力闘争である。


 これは、人類が有史いらい飽きるほど繰りかえしてきた、違う属性間での権力闘争にすぎない。ごくごくありふれたことだとも言える。しかしこの権力闘争に勝つには、この善悪二元論の差別の論理はうってつけなのだ。そのことに、どこぞの卑しいフェミニストは、いずれかの段階で気つ”いた。


 「白人は神に選ばれた優秀な民族。有色人種は劣等民族」100年前までは、世界中の人々がこの白人至上主義思想を信じていた。そしてこの人種偏見が終わり、ついに新しい、進歩的で平等な時代の幕があけたと思いきや、じつはその白人至上主義とまったくおなじ差別の論理をもつフェミニズムが世界を席巻し、深刻な男女対立が生まれつつあるのである。


 人種対立の時代から、男女対立の時代へ


 属性を変えただけで、人類はまったく同じことを繰り返している。いや、どう見ても、状況はより悪くなっている。


 キリスト教カルトから白人至上主義思想を経て、そしてフェミニズムへ。フェミニズムとは、このヨーロッパの宿痾ともいうべき、カルト思想の後継者なのだ。


 キリスト教カルトは、莫大な数の異教・異端の人間を虐殺した。

 

 白人至上主義は、黒人を奴隷化し、南北アメリカ、オーストラリア大陸の先住民を絶滅寸前にまでおいこんだ。

 

 そしてカルトフェミニズムは、わが国の男女の調和と、日本人が2000年かけてつくりあげてきた高貴なる女性文化と偉大なる男性文化を、そして男たちの誇りを、いや、精神文化のなにもかもを破壊してしまう・・・・

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