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フェミニズムを背後で操るものは誰か?ー1

 

 資本主義とは、金儲け至上主義のシステムである。かつての伝統社会では、社会は宗教や習慣といった別の原理から動く面が強かった。しかし資本主義社会とは、経済の論理のみで動くという、相当に偏った、つまるところ非人間的なシステムなのだ。


 産業革命後のイギリスでは、資本主義の暴走は目を覆うようなものがあった。10歳の子供も工場で一日13時間働かされ、女性も炭鉱やコークス置き場で長時間働かされる。その結果、労働者階級の女性の平均寿命は、20歳以下になってしまった。これでは人口再生産すらできず、民族は続いていかない。


 さらにこれだけ働いても、労働者たちの生活は劣悪を極めていた。レンガの粉で嵩増ししたココア、腐りかけの肉、労働者たちが買い物をする市場では、こういったひどい食べ物が並んでいた。そして労働者たちがこれだけひどい生活をしながら、その労働者たちから搾り取った金で、資本家たちは贅沢三昧の暮らしをしているのだ。


 資本主義というシステムは、一部の資本家たちに富が集中し、どうしても格差が開いてしまうという性質を、本質的に備えている。何もこれは、マンガに出てくるような悪い資本家たちの、悪だくみの結果こうなるわけでもない。自然にこうなっていくシステムなのだ。


 この反動として出てきたのが、共産主義である。共産主義は党が独裁権力でもって、国家と資本をコントロールしていくというシステム。この共産国家を作るには、まず貴族と資本家たちをみな殺しにする必要がある。その結果、ロシアなどでは3000万人が虐殺されてしまった。共産主義者が20世紀に殺した人間は、一億人を数える。


 共産主義者たちのやったことは、たしかに悪い。いまだに共産主義を蛇蝎のごとく嫌う人も多い。しかしこれは、資本主義があまりにもデタラメであったことの、反動でもあるのだ。彼らもまた、資本主義の下でモノのように扱われるのが、怖かったわけだ。


 共産主義と同じく、資本主義もまた相当に偏った非人間的なシステムである。


 冷戦時代までは、この革命の恐怖が資本主義の暴走を抑えていた。われわれ日本人は資本主義というものに、ほとんど警戒心を持っていない。それは昭和という、資本主義の暴走に歯止めがかけられていた時代の記憶があるからだ。しかしこれは、共産主義の脅威があればこそであり、資本主義の本来の姿とは決していえない。ブレーキがあればこそ抑制が効いていたという、特殊な事情によるものである。


 そして共産国家の崩壊により、とうぜん資本主義は暴走しだした。特にこれは、アメリカと日本がひどいように見える。アメリカは上位1%の金持ちが、国富の30%を独占している。日本の相対的貧困率は世界でワースト6位。日本では、6人に1人が結婚もできない状況に置かれている。労働者階級が人口再生産が不可能になってしまった、産業革命後のイギリスに近つ”いてきているわけだ。


 資本主義は、再び暴走しつつある。そして資本主義が暴走している日米でフェミニズムが異様なまでに盛んなのも、ここに理由があるのだ。


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 日本とアメリカだけではない。韓国、イギリス、フランス、ドイツ・・・、フェミニズムが猛威を振るっているのは、経済的に豊かな国ばかりだ。農本主義でやっている貧しい国では、フェミニズムは決して流行らない。これはつまるところ、フェミニズムを盛り立てているのがネオリベ勢、つまり本性を現した強欲資本主義だからだ。フェミニズムとは、実は資本主義と表裏一体のものである。


 資本主義とは、つまるところ「経済の論理」のみで動くシステムである。このシステムにおいては、金儲けの目的以外のものは、本質的に不要なものと見做される。資本主義においては、人間は労働力としてしか扱われない。人間を限りなくモノに近い「ニンゲン」にしてしまいたい、そして利潤追及のためにとことん搾り取りたい、これが、資本主義というものの本性だ。 


 人間が利潤追求のための道具、いわば「ニンゲン」にされてしまう悲惨なシステム。そしてその人間性を削ぎ落すためにあるのが、フェミニズムリベラリズムなのだ。


 産業革命後のイギリスでは、女性たちも炭鉱などで働かされていた。つまり、性差を無視し、女性が利潤追求のための道具にされていたわけだ。その結果、平均寿命が20歳以下になるという、悲惨な事態にまでなった。「資本の意志」は、女性たちをこの状態に戻したいと思っている。これに、フェミニズムがうってつけなわけだ。


 フェミニズムは性差を否定してしまう、超ド級のカルトだ。100年前の素朴な農民なら、卒倒してしまうような代物だ。というより、すべてのよくできた宗教がそうであるように、根底のところに大ウソがある。この思想は、もう最初の一歩目から完全に間違っている。そしてこのほとんど狂った前提から導き出される結論は、とうぜんことごとく間違ったものになる。


 歴史的に、伝統社会で重視されていたことが、2つある。それは民族の存続と共同体の安定だ。民族の存続が重要視されていたのは当然のこと。これが無ければ民族は続いていかない。共同体の安定が重視されていたのは、人々の精神と生活を安定させるためだ。


 人間は、どこかの共同体に所属し居場所を確保できなければ、精神的に安定し、楽しく生きていくことができない。またみんなで助け合わなければ、そもそも生きていくことすら難しい。だからどこの民族も、民族の存続と共同体の安定を最重要事項としてきた。ゆえに伝統の規範とは、この2つの目的の達成から、逆算して作られている。


 性別役割分業があったのは何故か?ーこれが無ければ母親が子育てに専念できないからだ。

 

 女は女らしく、女に母性と品位が求められていたのは何故か?ーそれが無ければ子供をきちんと愛し、しつけることができないからだ。

 

 女は女らしく、慎ましく、優しくあれと言われてきたのは何故か?ーこれは、1つには女に暴力性を身につけさせるのを禁じるためだ。女が暴力性を身につければ、その暴力性は幼い子供たちを直撃し、虐待につながってしまう。


 男が男らしく、男に強さと逞しさ、経済力が求められていたのは何故か?ーそれは、男が強くなければ「外敵」や、「横暴な権力者」から女も子供も守れないからだ。さらに男に経済力がなければ、女に安心して子育てに専念させてやることもできない。


 つまり性別役割分担も母性教育も、らしさの規範もすべて、民族を存続させるという合理的な理由からできたものなのだ。逆から言えば、これが無ければ民族は続いていかない。これは古い、新しいということではない、普遍に属する問題である。


 フェミストがこの伝統の規範を嘲笑するのは、フェミストたちが本質的に破壊を志向するアナーキストでしかないからだ。民族の存続など歯牙にもかけぬ、アナーキストたちの狂信でしかないからだ。しかし資本主義にとっては、この民族の存続など歯牙にもかけぬという、アナーキズムこそがうってつけなのだ。


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 資本主義を規定する原理は、経済の論理である。このシステムにおいては、男も女も関係がない。精神性や文化も何もない、ただの労働力である方が、使い勝手が良い。また、人間における精神性や矜持というものは、たいていその性別固有の役割などからきている。こういったものを削ぎ落したいのなら、性差を否定するフェミニズムは、まさにうってつけなのだ。あらゆる面でフェミニズムは、「経済の論理」しかない資本主義と、非常に相性がいい。


 このフェミニズムに被れれば、男は男であることに誇りを持てなくなり、また、女も女であることに、喜びを持てなくなる。そして男女はお互いに認め合えなくなり、その固有の美徳は成長していかない。男と女が認め合うというのが、人間関係の基本だ。それが無ければ人間的なものはどんどん失われていき、人はどこまでも空虚になる。何より、生きていても面白くなくなってしまう。


 かつての伝統社会では、男が男性性を、女が女性性を備えることを当然としていた。そして男女あわせて全人的な、豊かな人間性を備えることを、どの民族も理想としていた。これを可能にしたのは男が男であることを誇り、女が女であることに矜持を持つ、「らしさの文化」あればこそである。


 この民族の精神性の核となる「らしさの文化」を破壊してしまえば、男女ともに際立った人間的な美徳を失なってしまう。


 資本主義とは経済の論理、これのみで動く。

 

 性別役割分業ーそんなものは不要だ。女も働かせて、男の給料を下げた方が効率がいい。


 そんなことをすれば、女たちが子供を産まなくなり、民族が続かなくなってしまうのではないか?ーその通りだが、そんなことはどうでもいい。その民族が滅びてしまうのなら、よその貧しい国から移民を連れてきたらいいだけだ。繰り返すが資本主義とは、そこに労働力さえあればいい。人種や民族などどうでもいいどころか、むしろ邪魔だ。


 労働力としての「ニンゲン」さえ、そこにいればいい。それが資本主義だ。


 もちろん良妻賢母規範も、母性教育も必要ない。母性などを身につけさせてしまったら、女たちが子供を欲しがるようになり、働かなくなってしまうではないか。女たちが目玉を三角にしてしゃかりきになって働いてくれなけば、女たちから搾り取ることができない。


 さらに、女に慎ましさも優しさもいらない。むしろドンドン暴力的になったらいい。女が暴力的になればなるほどその心は荒れていき、子供を欲しいとは思わなくなるからだ。そして子供を欲しいと思わなくなった女は、嫌でも働かざるを得なくなる。だからとことん女の暴力性を煽り、女らしさを破壊してやるべきだ。


 ここ90年代初頭からの日本で、漫画やドラマといった媒体で、女がキャリアを追求するフェミニズム的なものや、女と男がボコボコ殴り合う狂った暴力描写に満ち溢れているのは、ここに理由がある。


 女たちが産む性であることも女らしさも否定し、さらに女の暴力性をとことん煽り、男性化させる。すると女性的美質を失ってしまった女たちは、とうぜん労働力としてしか生きれなくなる。さらに男性的悪徳を身につけてしまった女たちは、どこまでも人として退廃していく。


 もともと大きな女性的悪徳を備えている女たちが、さらに男性的悪徳までも身につけてしまえば、その悪徳は手におえないほど巨大なものとなり、臨界点を越え、やがて女たちはその悪徳に飲み込まれてしまう。近ごろ、常に怒りや嫉妬にとらわれて完全に心のバランスを失ってしまっている女性、というのをしばしば見かけるが、これは一つには身につけてしまったその巨大な悪徳に翻弄されてしまい、どうにもならなくなっているからだ。簡単に言えば、自分が背負える以上の悪徳を身につけてしまったから、狂いかけているわけだ。


 そもそも女と男の悪徳を身につけてしまえば、その時点でまわりは敵だらけになる。陰湿で粗暴な女など、誰にも耐えられないだろう。どちらかにしてくれ、という話だ。そうなればもう、こういう女たちは生きているだけで苦しい、という風になる。こうなると人は、その激しい虚しさを誤魔化すために、何かに依存するしかなくなる。それがある者はアルコールで、ある者はギャンブル、そして日本人の大半は、やはり仕事に依存するようになるわけだ。


 こうして女たちの「労働力商品化」は加速度的に進んでいき、そして大半の女たちは、結局は壊れてしまう。女らしさを否定してしまうと、女たちは行き場が無くなってしまうような形に、どうしてもなる。そしてこれこそが、フェミニストたちがその活動をしている、隠された動機でもある。


 性差を否定するだけでも異常であるのに、女が男とボコボコ殴り合う描写が氾濫する世相を見て、まともな人間なら激しい違和感を感じるはずだ。こんなものが進歩的なのかと、誰でも疑問に思うはずだ。もちろん、こんなものはただの気狂い沙汰だ。


 これは、女から「女らしさ」を奪い取り、モノ的な労働力にしてしまいたいという、「資本の意志」からきていることだ。金儲け至上主義のシステムが、女たちに女であること否定すべしという、狂った要求をしている。われわれは異常なシステムの下にいるから、女たちが異常な適応を強いられ、苦しんでいる。ただ、それだけのことだ。いつに時代でも庶民は暴君に虐げられ、苦しめられる。それと似たようなものだ。


 考えてもみて欲しい。大人の男と子供がボコボコ殴り合ってる映画を見て、人々が拍手喝采して楽しんでいたら、完全に狂っているだろう。それとどこが違うのだろう?ここまでいくと、狂気を通り越して、喜劇じみてすらくる。間違いなく、文明の末期だ。


 まともな規範で生きているアラブやアフリカの人々は、この西側諸国の退廃ぶりを見て、おそらく、怖気が走るほどの恐怖を感じているのだろう。近年、アラブで急進的なイスラム過激主義が台頭してきているのも、ここに一因があるような気もする。


 アラブの人々からしたら、自分たちの社会を女が男と張り合い、殴り合っているのを良しとするような狂気じみたものにするわけにはいかないと、とうぜん思うのだろう。そして先進国の人間の狂った姿を見て、アッラーの教えはやはり正しいのだと、ますます確信を深めていく。無理もないことだ。


 こうなると、どちらが狂気でどちらが正気なのかが、わからなくなってくる。過激フェミニズムとイスラム過激派は、同じくらい偏っている。女と男が殴り合うのを良しとする文化と、女が全身をブルカで覆わなければならぬという文化は、偏りにおいてさほど変わりが無い。むしろ筆者には、前者の方が異常に感じる。


 われわれ日本人は、フェミニズムの洗脳によりあらゆる価値が逆転した世界で生きており、そのことに、自分自身では気つ”けなくなっているだけなのだ。


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 性別役割分業、母性教育、品位、慎ましさといった女らしさの規範の否定、そして性差は無いというジェンダーフリー思想、これらすべては「産む性」である女の役割を否定し、本来、偉大で豊かな母になるべき女性たちを、惨めな歯車でしかない労働力に貶めるための、詭弁でしかない。


 この資本主義社会における労働は、女たちに決して輝かしい充実をもたらさない。この金儲けがすべてのシステムの中でする労働は、人間から人間らしさを奪っていき、どこまでも疲弊していくだけだ。


 女たちを偉大なる母から、歯車でしかない労働力へと貶めるために、フェミニズムはある。


 フェミニズムとは、この資本主義というシステム下において、女たちを労働力という商品にさせる為に、「女らしさと」いう人間らしさを削ぎ落すための思想なのだ。女たちを労働力という商品、モノにさせるには、どうしても「女らしさ」があってはうまく適応できない。ゆえに女たち自ら女性的美徳を削ぎ落させるための、洗練された詭弁なのだ。


 しかしそんなことをしてしまえば、こんどは子を産み、育てる際に重大な支障をきたすことになる。母こそが、最も偉大で人間的なるものに満ち溢れていなければならぬのに、フェミニズムは、それを不可能にさせてしまう。そしてその皺寄せは、すべて子供たちにくる。


 人類は史上、多くのカルト宗教を生み出してきた。その中には、「子を産むことは悪である」、というような凄まじいものもあった。もちろん、この宗教を信じた民族は亡んだ。フェミニズムとは、このカルトに匹敵するぐらいの強烈に歪んだ思想、民族を滅ぼす毒であるという認識を、われわれは持つ必要があるのではないか。


 



 ②に続きます。


 


 




 



 


 

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