見出し画像

女の意地悪は、それ自体がセクハラ

 

 セクハラ、セクハラと本当に息苦しい世の中になったなと思う。これは、もちろん現代の日本がフェミニズムにのっとられているからだ。軍国主義でやっていた戦前の日本では、軍部の批判をすることは、絶対のタブーだった。同じくフェミニズム国家である現代の日本では、女たちの機嫌を損ねることは、絶対のタブーなわけだ。過激思想とは、ほんとうに嫌なものだ。


 しかしあえて言ってしまえば、ちょっとしたセクハラなんていうのは、たいした問題だとも思えない。それは、女たちも本質的にまったく同じことを男たちにしているからだ。


               。。。。。


 まず、性的関係を強要する、体を触るなんていう悪質なセクハラは、とりあえず論外だ。これはもうセクハラというより、暴力であり、強制わいせつかなにかに相当する犯罪だろう。こういう悪質なものではなく、筆者のいっているのは軽いセクハラのことだ。例えば、


  

 1 女らしくない

 2 女の子なのに機械に強いんだね

 3 舐め回すような目で、女性の体を見る

 4 女の人は子供産んでなんぼでしょ

 5 女性にわざと聞こえるように猥談を言う


 こういうさほど悪意の無いものだ。こんなことすら最近はセクハラ扱いされ、ヘタをすれば処罰されてしまう。しかしよく考えてみれば、これと同じようなことは、女性たちだっていくらでも言ってはいないだろうか?


 

 1 男らしくない(またはあえて間接的に、器が小さい)

 2 男の人なのに、機械に弱いんですね

 3 汚いものを見るような目で、男を見る

 4 お仕事できないんですね。または、たいした稼ぎも無いのに(若いころ言われた)

 5 わざと聞こえるように悪口を言う


 本質的にまったく同じことを、女たちもしている。女たちもまた男たちに男らしさを押し付け、そして嫌いな男に嫌がらせ、つまりハラスメントをしている。


 男は女にセクハラをする

 女は男にハラスメントをする


 やっていることに、何も変わりが無い。男と女は同じくらい姑息で陰湿な嫌がらせを、異性に対ししている。男が女にセクハラをした分だけ、女もまた男にハラスメントをしているのだ。おそらくこれは全体的に見て、数学的正確さで同じ総量なのではないかと、筆者は思う。われわれ日本の男と女はどこまでいっても同レベルなのだから、考えてみればあたりまえことだ。


 何かここに決定的なカン違いがあるのだが、「セクハラがいけない」だけでは片手落ちだ。そうではなく、「人の心を傷つけることがいけない」が正しい。その手段がセクハラであれハラスメントであれ、人を傷つける行為なら同罪だ。そのやってはいけない嫌がらせを、男は性的なやり方で、女は精神的なやり方でやっているだけだ。


 男は、ご存じのように性欲が強い。だから、性的なやり方で女を傷つける。しかし女にもいわば負の性欲というものがあり、精神的なやり方で男を傷つける。この負の性欲とは、自分より劣った男を痛めつけてやりたいという、どこか性的な匂いのする、女性特有の陰湿な衝動である。


 諸説あるが、女性の性欲は男の25%くらいではないだろうか?あとの75%を、女性はこの負の性欲で補っているわけだ。(この負の性欲については、ツイッターの異才、リョーマ氏から学びました)


 つまり女の精神的嫌がらせも、じつは負の性欲が根底にある、性的いやがらせにすぎないわけだ。じつは男も女もお互いに、性的嫌がらせをやりあっているということだ。


 女性たちはまったく自覚していないが、この負の性欲というのは男の性欲と同じく、ネチネチドロドロとしていて、そうとうに気持ちの悪いものだ。現代の女性たちには、自分たち女が、男と同じある面で気持ち悪い生き物だという認識がまるでない。どこか無謬の、根っから清らかな存在だとカン違いしているようなフシがある。フェミニズムのいうところの「聖女幻想」がある面で過剰となり、それが真実を覆い隠している。


 しかしこの「負の性欲をぶちまける女」なんていうのは、「正の性欲をぶちまける男」とまったく変わりがない。つまり男からすれば、そういう女はセクハラ男と同じなのだ。同じくらい気持ちの悪い、同じレベルの逸脱者にすぎない。しかしこれは、女もまた男と同じ生の人間であるというだけのことにすぎず、なにもおかしなことではない。これがフェミニストのよくいう、「女もまた人間」ということだ。そしてこの負の性欲の強すぎる女が男に生まれ変われば、痴漢やレイプをするようになる、というわけだ。


 そして現代の日本では、この「男の正の性欲」「女の負の性欲」に対する罰され方に、天と地ほどの違いがある。


 男が女にセクハラをすることは、絶対に許されない。

 女が男にハラスメントをすることは、何の問題も無い。


 むちゃくちゃだが、これが現代の日本だ。いつのまにやら日本は、男と女の間に身分差のようなものができてしまっている。中国では、共産党の高官なら殺人をしたって揉み消される。特権階級の横暴だが、どこかそれと似ている。


 しかし公平さを欠いてしまったら、それはもう文明社会とはいえない。基準とは、絶対に公平でなければならないのだ。


 男のセクハラ(正の性欲)を裁くなら、女のハラスメント(負の性欲)もまた裁く。

 女のハラスメント(負の性欲)を裁かないのなら、男のセクハラ(正の性欲)もまた裁かない。


 この2つのうちどちらか1つで、それ以外はありえない。


 「女の人は子供産んでなんぼでしょう」

 「女性にわざと聞こえるように猥談を言う」


 今ならこのレベルの男のセクハラでも厳重注意はもちろん、ヘタをすれば左遷もあり得るのではないだろうか。ならば、


 「お仕事できないんですね」

 「男にわざと聞こえるように悪口を言う」


 このレベルの女のハラスメントもまた、同じく厳重注意か左遷だ。これが公平、これが差別が無いということだ。しかし、現実はそうはなっていない。女のハラスメントだけは、なぜか許されてしまっている。しかしそれならば、男のセクハラもまた許されるということに、理論上はなる。女が負の性欲をぶちまけたぶんだけ、男もまた正の性欲をぶちまけていいということに、なってしまう。もう男女平等の原則にのっとり、自動的にそうなる。つまり、


 「彼氏はいるの?」

 「スタイルが良いね」    (対・キモイ)

 「3サイズはいくつ?」   (対・たいした稼ぎも無いのに)

 「女性の体を舐めるように見る」

 「わざと聞こえるように猥談を言う」


 この程度のセクハラなら、許されるということだ。たしかにこれは、かなり不快だ。しかし女たちのやるハラスメントもまた、同じくらい不快なのだから仕方が無い。これが理解できぬというのなら、女は論理性に劣るということになってしまう。


 女たちはセクハラをするような男を、病的に嫌う。しかし、なぜ男たちがほとんど強迫的にセクハラをしようとするのか、考えたことは一度もない。ここが、女という生き物の限界だ。それはその男たちもまた、女たちの気持ちの悪いハラスメントに、さんざん傷つけられてきたからだ。男としてのプライドを、踏みにじられたからだ。


 人間とは、やったことをやり返す生き物だ。逆に言えば、やられたことがないことは、やり返そうとは思わない。というより、そう思えない。そういう衝動が、心の中から湧き上がってこないのだ。一度も女に傷つけられたことの無い男が、女に危害を加えることは、理論上不可能である。


 つまり、これだけ女にセクハラしようとする男がいるということは、女たちのハラスメントもまた、それだけひどいということなのだ。女たちの姑息で陰湿なハラスメントが、男たちからセクハラという形で返ってきているわけだ。セクハラ男とは女たちの負の性欲の投影であり、じつは、女たち自身が生み出したものでもある。そして、女たちがあれだけ激しくセクハラ男を嫌うのは、そこに自分自身を見てしまうからだ。


 これはもちろん、逆もそうだ。男たちの薄汚いセクハラが、女たちの薄汚いハラスメントを生み出してもいる。これはもう、「卵が先かニワトリが先か」という話で、どちらが悪いかなどとはいえない。こうやって男と女は人類発祥のときから、傷つけあってきたのだ。それを男たちだけのせいにしようとする、女たちの歪んだ態度が、大問題なのだ。

 

 つまり昭和のある時期まで、男たちのセクハラがある程度許されていたのは、ただ単に女たちも本質的に同じことをしていると、男女ともに認識していたからだ。たしかに昭和の女性たちは、ささいなセクハラで騒ぐようなことは無かった。軽く流してもいた。それは自分たち女も男に同じようなことをしていると、直感的に理解していたからだ。


 昭和までは、じつはこの点では男女平等だった。お互いのささいな悪徳くらいは我慢しあいましょう、という公平な文化だ。男は正の性欲で、女は負の性欲で異性を傷つける。しかし性欲とは本能に属するものだから、すべて抑えろといっても、抑えきれるものではない。無理にそんなことをすれば、精神的におかしくなってしまう。


 そんな不自然なことはせずに、ささいなものならお互いに我慢する。その基準はおそらく、「侮辱という精神の暴力にまではいかない、不快、軽侮にとどまるもの」である。イライラはするが、激怒するほどのことではない、という微妙な一線だ。ここまでなら、男女ともになんとか我慢することができる。そしてその方が、全体としてみれば苦しみは少ない。なによりこれでやれば、男は女は揉めないで済む。こういう、非常に深い大人の知恵にもとずいた文化だ。


 男尊女卑にして女性差別といわれている昭和は、じつは、この点では男女平等だった。

 そして男女平等といわれている現代の日本は、じつは、女尊男卑にして男性差別である。


 真実とは、往々にして表面に映っているものとは、逆のことが多い。それは真実は深い所にあるから、たいてい歪んで見えてしまうからだ。さらに男と女のあり方は、非常に複雑で入り組んでいる。ゆえにこれほど誤りやすいものはなく、また、これほど詭弁を弄する連中に付け込まれやすいものもない。


 フェミニズムとはつまるところ、「女の方が偉い、凄い」という、女性至上主義にすぎない。いまやたしかな実力のある女性文化人たちですら、「女の方が強い」、「女は優秀」と、うっとうしいほどに連呼するのは、みなこのフェミニズムに影響をうけているからだ。


 そして、この女性至上主義にかぶれると女たちはみな、女の方が身分が上で、男たちは身分が下なのだと思うようになる。男をどこか、下僕のように見做しだす。これは幼少時に過剰にかわいがられ、特別扱いされて育つ女性たちは、たいてい誰もがもともと持っている感覚でもある。フェミニズムは、女のこの感覚をとことん肥大させる。こうなると女たちは、下僕にすぎない連中などなぜ傷つけてはいけないのだと、とうぜん思うようになる。そして、


 「男が女を傷つけたら絶対に許さないが、男などいくらでも傷つけてやれ」


 というまるでKKKのような、正真正銘の差別主義者に堕してしまうのだ。


 

 (フェミニズムにも色々あり、その中には筋の通ったものも当然あるでしょう。ここで筆者が指しているのは、この国のマスメディアをのっとり、毎日のように男女対立を煽っている人たちの信奉するフェミニズムであることを、お断りしておきます)



 面白いと思ってくださった方は、投げ銭を(¥200)



 


 


 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?