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年功序列制度とは、秩序だった実力主義。


 日本人は、アメリカ型実力主義制度というものを過信している。というより、幻想すら抱いている。日本型年功序列を投げ捨ててアメリカ型の実力主義でやれば実力者が評価され、組織が良くなるかのように錯覚している。


 しかし、そんなことはありえない。そんな簡単なことなら、日本人だって歴史のどこかの時点でそれを選択しただろう。それが無理で日本人に合わないからこそ、日本人はそうしなかったのだ。これは欧米の文化を上とみなし、盲目的に日本文化を否定するという悪しき欧米崇拝にもとつ”く、何の根拠もない日本文化の否定にすぎない。


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 まず、実力主義というものは、絶対に機能しない制度である。それは、人間の心の中に嫉妬と恐怖というものが存在するからだ。そこを押さえてからシステム作りをしないとダメなのだ。このマイナスの感情がある限り、人は自分より能力のある部下を抜擢することはできない。


 ここに、Sランクの能力を持つ某部長がいるとしよう。彼が課長に抜擢できるのは、自分より下のAランク以下の部下だけである。それは当然だ。自分と同レベル、または格上の能力の人間を抜擢したら、いずれ自分はその部下に地位を追われてしまうだろう。だから、そんなことは怖くて絶対ににできないのだ。


 Aランクの能力を持つ甲部長が抜擢できるのは、Bランク以下の能力の部下だけだ。Bランクの能力の乙部長が抜擢できるのは、Cランク以下の能力の部下だけだ。Cランクの丙部長が抜擢できるのはDランクの~、という風にドンドン能力の低い部下ばかりが抜擢されるようになる。


 こうして能力主義が、いつの間にか非実力主義になっているわけだ。


 これは極端な例で、実際には誰にも文句のつけようのない業績を上げる、または経営陣直々の抜擢を受ける、などのやり方である程度は是正されるだろう。しかし、実力主義でやったら実力者が抜擢される風通しのいい組織ができあがるかといったら、それは全く違う。


 年功序列には、年齢という壁がたちはだかる。しかし実力主義には、人間の恐怖と嫉妬という壁がたちはだかるわけだ。恐怖と嫉妬という可視化しえないものなだけに、こちらのほうが厄介だともいえる。


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 そしてこんなことは、日本人にとっては学習済みのことだ。戦国時代、実力主義でやった国というのはほとんど無い。織田、豊臣、筒井、松永くらいらしい。あとはみんな門閥主義だ。実力主義でやったらいいのは、当時の人たちだってみんな分かっていた。しかし、実力者を招き入れたら家そのものを乗っ取られてしまうから、怖くてできないのだ。


 実際、大名にまでのし上がった宇喜多直家という極悪人は、有力者の家に婿入りし、舅以下一族を殺してその家を乗っ取る、ということを2度もしている。織田家は確かに超実力主義で、秀吉を草履取りから五大軍団長の一人にまで抜擢した。しかしこれは信長が秀吉をしのぐ天才だったからできたことで、この場合、人間は自分と同等または格上の能力を持つ人間を抜擢できない、という原理は適用されないからなのだ。


 もちろん同じく天才である秀吉は、自分を抜擢できるのは天才である信長だけ、他のどこへ行っても嫉妬でつぶされるだろうということが分かっていて、織田家へ入ったはずだ。それは明智光秀も同じだろう。光秀も、自分ほどの才能を正しく評価できるのは信長だけだと確信して織田家へ入ったはずだ。


 しかしその信長も、けっきょく光秀に殺されてしまった。戦国きっての天才も、実力主義制度は使いこなせなかったわけだ。信長でも使いこなせない超難易度の高い制度を、われわれ市井の凡人たちに使いこなせるわけがない。


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 そういう歴史の体験を経ての、日本の年功序列制度である。この制度は、年齢の縛りこそはあるが、安定して優秀な人間を上に抜擢できる、という強みを持っている。


 Aランクの能力を持つ甲さんが、部長職を5年務めたとしよう。次は同じくAランクの乙さんという部下を、部長職に抜擢できる。年齢という縛りがこの場合甲部長を守ってくれるから、安心して同レベルの部下を抜擢できるわけだ。そしてこの乙さんも、同じく次にAランクの丙さんを部長職に抜擢できる。


 アメリカ型実力主義制度が、年を経るごとに能力の無い人間が抜擢されて劣化していくのに対し、日本型年功序列制度は安定的に優秀な人材を上に抜擢できる、というわけだ。日本人の誰もが悪であり抑圧だとしか思っていない年齢の壁が、実は上役の恐怖と嫉妬から日本人を守っていたわけだ。ここら辺が、80年代に日本経済が世界を席巻した一因なのかもしれない。


 それにそもそもの話、日本の企業の採用基準は学歴主義だ。この学歴主義とは、同レベル、同傾向の人間を採用するという、非実力主義の最たるものであり、いわば現代の門閥主義のようなものだ。


 なぜ勉強なんぞを必死こいてやらなばならんのかと学生たちは思うのだが、実はこれはかつては世襲でしか譲り受けることができなかった爵位に相当するものを獲得するためで、本質的には大した意味は無いが、社会的には大変な意義がある。田舎に生まれた田吾作が、勉強すれば勘定奉行(財務大臣)になれるなんてのは、江戸時代には想像すらできなかったことだ。


 だから受験勉強で子供を発奮させるには、「頑張って正一位(東大卒)を獲得せい」、みたいな言い方をしたらどうだろうか。正一位なんてのは五摂家レベルの家柄に生まれなければ就けなかった最高の位、もしかしたら子供たちの心にも響くものがあるかもしれない。


 話が逸れた。この採用を非実力主義でやっておいて、その後の出世レースを実力主義でやるなんてのはもう、無意味どころか有害でしかない。同レベル、同傾向の人間に絞って採用したのだから、もちろんそこには大して差の無い人間しかいない。2010年度入社組と、2020年入社組とはあらゆる面で能力、資質にたいした差が無いはずなのだ。


 たいした差が無いのだから、年齢で序列をつけたらいい。経験と知識がある分、年上の人間の方がとうぜん有能だろう。同じ才能の18才と25才のサッカー選手だったら、当然25才の方が経験豊富なぶん有能なはずだ。それと同じだ。同レベルの人間を集めておいて、無制限の出世競争なんかさせたら、人間の持つ嫉妬心、優越感、エゴなどをとことん刺激し、カオスの世界になるに決まっている。


 事実、実力主義でやっている会社がギスギスしているというのはよくある話だ。というより非実力主義で採用しておきながら、出世競争は実力主義なんていうのは、とんでもない論理矛盾だ。実力主義でやるのなら、採用の段階で学歴、性別、人種、年齢、前職、いっさい問わずでやらなければ意味がない。つまり、中卒でもアフリカ人でも50代でも、元ヤクザでも前科者でも問わずでやらなければならない。


 アメリカが実力主義でやらざるを得ないのは、あらゆる民族で構成されているがゆえに、建前だけでも基準をはっきりさせないと、民族同士の対立に繋がってしまうからなんだろう。日本人は基本、同じ文化を共有しているからそんなことをする必要がない。日本人には実力主義はなじまない、というより合理的に考えて必要のない制度なのだ。


 年齢の壁か、上役の恐怖と嫉妬の壁か、どちらがいいかというだけで、日本人に合っているのは年齢の壁なのだ。


 ただ会社が危機に陥った時、そして不得意分野があるのなら、乗っ取られないように外部から年俸制で有能な人間を雇ったらいい。組織にとって最も重要なのは秩序だ。人間はそこにいて安心できる時、最も力を発揮する。実力主義は、この一番大事なものを破壊してしまう。


 だから異能の人間は、うまく使って組織を守ったらいいのだ。ここら辺の機微は、映画の7人の侍なんかにうまく描かれている。百姓たちでは野盗に太刀打ちできない。しかし、野武士などという気性の荒い毛色の違う人間がつねに村をうろつかれても困るから、金で雇おうということだ。


 こうやって日本人は、上手いこと共同体の秩序を守ってきたんだろう。日本人は共通の文化でやっているがゆえに、秩序を守り、人々の間に安心感を生み出せれば途方もない力を発揮する。日本人が長年かけて作り上げた最も日本人に合う文化を、日本人自らの手で破壊しているのは、なんとも歯がゆいことだ。


 

 


 

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