蜂の魔法が、ブラジルと日本の距離17360kmを少しだけ縮めてくれた
“Hey, are you OK? This is good for your throat.”
ホテルのチェックアウトカウンターに、ブラジル人女性が小さなボトルをコトリと置いた。
キャビンクルーの彼女は、フライトで月に1度日本にやってくる。わたしが勤めるホテルが、彼女の日本での滞在先だった。
太平洋を越えて毎月やってくる彼女は、フロントスタッフのわたしとは顔なじみ。わたしがフロントデスクにいると、はじけるような笑顔でやってきて、いつも陽気におしゃべりしていく。
わたしはボトルに手をのばした。こっくりとした飴色の、手のひらサイズのボトル。
印刷されたPROPOLISという文字の横に、大きな蜂の写真があった。
イガイガするのどを何度も鳴らしながら、ボトルを見つめる。たぶんわたしは、怪訝そうな表情をしていたんだろう。なにこれ?と顔に書いてあったのかもしれない。
「蜂蜜みたいなもの。のどの痛みによく効くわよ。スプレーするだけで大丈夫。あなたにあげるわ、いつもお世話になってるから」
彼女は英語でそう言うと、長いまつげをたずさえた目で、パチンとウィンクをした。
-- プロプリス?初めて聞いた。これ、ホントに効くのかな?
ボトルを下からながめたり、ひっくり返したりしていると、
「スプレーしてみて。びっくりするくらい効くんだから」
と彼女のひとこと。
心を見透かされたようでばつが悪くなり、大袈裟な笑顔で“Thank you for your concern.”と返す。
彼女は満足そうにほほえみ、その大きな目で、またパチンとウィンクをした。
”See you next month! Take care.”
そう言うと、キャリーバックの向きをくるりと変え、空港行のバスのほうに歩き出した。
いまから四半世紀ほど前のことだ。
♢
初めて聞いた“プロポリス”という単語と、人を刺しそうな蜂の写真。飴色のボトルを耳元で振ると、トプトプと音がする。
わたしの生活圏内では1度も見たことのないボトルに入った、謎の液体。成分表にはポルトガル語で書かれた難しい名前がならび、なにが入っているのかさっぱり分からない。
インターネットのない時代だから、調べようもなかった。“のどの痛みによく効く”という彼女の言葉を信じるしかない。
家に帰り、もう1度ボトルを眺める。大きな蜂は相変わらずそこにいて、お尻から針を出している。
ふたを開けて鼻を近づけてみる。ふわっと甘い香りがしたかと思うと、その数秒後に、いままで嗅いだことのないような、ツンと鼻をつくにおい。
-- これ、ほんとに大丈夫なのかな?
急いでキュッキュッとふたを強く閉める。
夜になると、のどの痛みはひどくなった。カサカサを通り越してガッサガサだ。熱を帯びているような気もする。
“のどの痛みによく効くのよ”という彼女の言葉を思い出し、ベッドのわきに置いたプロポリスのボトルに、おそるおそる手を伸ばす。
-- このにおいさえ我慢すればいいか。
自分を納得させるためにうなずき、口を大きく開けた。
シュッ!のどめがけてスプレーをひと吹き。
トロリとした濃密な液体が、のどを湿らす。液体の甘さが、ジワジワとのど全体を包みこんだ。紙にこぼれたコーヒーが、ゆっくりと染みていくみたいに。
ジワジワジワ。あったかくなってくる。
-- ん?意外と美味しいかも。
ボトルのラベルを見ると、蜂はやっぱりそこにいて、お尻から針を出している。その蜂の勇ましい姿を見たら、なんだか効くような気がしてきた。
実際にはこのラベルの蜂が集めたものではないんだろうけど、プロポリスの効き目の予感に、“Obrigada.”と、この蜂にお礼を言い、そのまま布団に入った。
翌朝。
目覚めると、のどの痛みはすっかりなくなっている。昨日の夜、あんなに痛かったのに。
まるで魔法だ。
プロポリスをひと吹きしただけなのに。ブラジル人の彼女の言うとおりだった。彼女の大きな瞳を思い出す。
-- あなた、なかなかやるわね。
わたしは、ボトルの蜂を指でなぞった。
蜂の魔法を教えてくれた彼女に、なにかお礼がしたい。わたしは、彼女になにを教えられるだろう。
飛行機の中はいつだって乾燥地帯。30時間にもおよぶ長時間フライトで、彼女ののどはガサガサにちがいない。
かりん生姜湯の粉末ドリンクはどうだろう。
お湯でサッと溶かせるし、ホテル滞在中に気軽に飲んでもらえるかもしれない。
瓶に入ったキンカンの甘露煮もいいよね。
手軽にポイと口に入れられるし、なんといっても、宝石みたいにつややかに光る、あのオレンジ色の実を眺めるだけで、満たされたような気持ちになる。
見たことも行ったこともない、日本から17360km離れたブラジルの地を想像する。
そこで生活する彼女を想像する。
蜂蜜のような美しい色の髪をかきあげる、彼女の姿を想像する。
蜂の魔法を教えてくれた彼女。
その彼女に喜んでもらえるものはなにかな。
来月、彼女はまた日本にやってくる。それまでに、彼女が喜んでくれそうなもの、探してみよう。
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