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小説を書く原動力は妄想力?

こんな人たちをめっちゃ尊敬している。

デザインする
絵やイラストを描く
小説を書く
マンガを書く
作詞をする
作曲をする


noteにはクリエイティブな人たちがたくさん。彼らの脳はいったいどんなふうになっているんだろう。

描きたいものを想像してから描く?
ストーリーや登場人物をどうやって生み出す?
曲のイメージをどうやってふくらませる?

謎、謎、謎ばかりだ。

昔から「想像力をふくらませて」なにかをするのが苦手。目の前にあるモチーフを描いたり、模写をしたりというのは、なんとかなった。現実をなぞるのは、まぁ、なんとかなる。

でも「想像力をふくらませて」とか「自由に表現して」とか言われると固まっちゃう。

「自由に」って言われても・・・想像力ってどうすればふくらむの。

文章も事実に基づいたものは書ける。事実8割、想像2割くらいだったらなんとかイケる(かもしれない)。でも、それ以上想像の占める割合が大きくなるとお手上げで、わたしはハニワのような顔になる。


フィクションが書けないので、ほぼ事実の文章。クリエイティブな人は、わたしができないことをサラリとやっている(ように見える)。尊敬の念しかない。

以前、こんな記事を書いた。

小説を書ける人と書けない人の違いはなんだろう?と考えてみた、という内容。この記事を読んでアンサーnoteを書いてくれた方がいて(ありがとうございました!)。


秋谷りんこさんは、ショートショートから長編までたくさんの小説を書いている。

小説を書く人はどうやって想像力をふくらませるの?どんなふうにプロットを組み立てるの?と不思議に思っていたので、りんこさんの答えがすごく新鮮で。

普段は基本的に、空想と現実のはざまで生きている。空想と現実が同居している感覚。
現実と架空世界は、バリアフリーなの。その真ん中で、ゆらゆらしながら生きているの。だから、小説とか映画とか音楽とか絵画とか、私の情緒を強く引っ張るものに出会うと、架空世界のほうにぐいーんと持っていかれてしまって、帰ってくるのに時間がかかるの。


ん?え、えーーーっ?!空想の世界と現実とを行き来している?! 

想像力が枯渇しているわたしには全く想像の及ばない答えで、とても印象に残った。いくつもの人生を同時に生きている感覚なのかしらって。

映画、ドラマ、小説など、ストーリーのあるものを鑑賞しているときはその世界を疑似体験しているような感覚になる。登場人物のようにホッとしたり、ハラハラしたり、大喜びしたり、悲しくなったり。

でもそれは、わたしにとっては、鑑賞している間だけの限定的な疑似体験。

空想の世界と現実とを行き来しているりんこさんのような人は、常にいくつものストーリーが脳内で同時進行なのかもしれない。

そんなことをたびたび考えていた。すると先日、似たようなことを言っている人を見つけた。

江國香織さんのこちらの本。

江國香織さんは、昼間は仕事をしているか本を読んでいるかのどちらかなんだって。外出しても、空き時間は必ず本を読むらしい。

本を読んでいるあいだ、私はその物語のなかにいます。そして、私の仕事は小説を書くことですから、仕事をしているあいだ、私はその小説のなかにいます。つまり、現実を生きている時間より、物語のなかにいる時間のほうがはるかにながい。もう、ずっとそうです。


江國香織さんは、起きている時間の8割は本を読んでいるか書いているかなので、現実生活の時間は起きているうちの2割くらいだ、と述べている。

つまり、作家になってからの生活では8割の時間を物語の世界で生きているから、現実世界では2割しか過ごしていない感覚になっていると。

私が物語のなかで過ごしているあいだも、現実の時間は流れていて、街も人もシステムも変わり、様子がすっかり違ってしまっているので戸惑います。


空想の世界と現実とを行き来している人も、もしかしたらこんな感じなのかも。

わたしは現実世界と本の世界をいとも簡単に、容赦なく切り離せるので、本を閉じた瞬間に100%現実に即なじむ。それがいいのか悪いのかは分からないけれど。

江國香織さんは、物語の世界に【帰る】【戻る】となんども言っていて、その間は現実世界を留守にするのだそう。

この現実世界を留守にするという感覚が、クリエイティブな人の脳内を想像するときのキーになるのかも

わたしはこの現実世界というフェーズでしか生きていないけれど、クリエイティブな人たちは現実以外のフェーズでも生きているのかしら、同時多発的に。

わたしが知らないだけで、現実以外のフェーズは無数にあって、そこでクリエイティブな人たち同士が行き交ったり出会ったりしているのかもしれない。

現実以外のフェーズ=空想の世界かしら?

空想の世界は、パラレルワールドや異世界ともまったく違う広い世界なのかもしれない。

空想の世界に「妄想の種」を埋めたあと、また現実世界に戻り、そのあとまた空想の世界に出かけていってその種の育ち具合を見る。

その種をもとに、さらに妄想したり創造したりするのかもしれない。

そのほか、目の前に「妄想列車」が突然やってくるという人もいる。


verdeさんは小説を書くとき「プロット」は作らないらしい。じゃあどうやって小説を書くの?と思う人も多いだろう。わたしもそうだった。

頭のなかに突然浮かぶワンシーン。それこそが、verdeさんが小説を書き始める入口。なんの前触れもなくやってくるその現象を、verdeさんは「妄想列車」と呼んでいる。

この列車はいつ来るかわからない。例えば音楽を聴いているとき。映画を見ているとき、空を見上げているとき、電車に乗っているとき、ワインを飲んでいるとき、料理をしているとき、洗濯物を干しているとき・・・。

そのワンシーンを皮切りに、脳内スクリーンには次々と映像が現れるそうで、それを必死に追いかけるようにストーリーを書く。書くというより「書かされる」のだという。これがverdeさん流。

想像力が豊かな人たちの脳内は、わたしの想像の及ばないところにあるけれど、それでもやっぱり知りたいと思う。

小説を書く原動力は、妄想力なのだろうか。もっと考察してみたいテーマである。

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