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親ガチャ

 小学生の頃、ウチは借家で4LDK、古い木造建築の1階建て。庭はせまいながらもあり、引っ越してきた当初、ドクダミがたくさん生えていて、その匂いが嫌いだった。
 トイレはいわゆるポットン便所で、トイレットペーパーを使えば、強く引っ張るとロールがスルリと外れ、便器のなかにまっさかさま。それをそうはさせじとトイレットペーパーを巻いて戻そうとするのだが、それもむなしく途中で切れる。
 風呂は五右衛門風呂で、深くて怖い。何でこんなところに引っ越してきたのかと思うが、さすがに五右衛門風呂はいかがなものかと、いつからか大家さんが、ポリの風呂に替えてくれた。
 短い坂道を下れば商店街に出る。そこからバスに乗れば、街の中心街までたいして時間はかからない。通勤へのアクセスはよかったのだろうと、親父の目線からいうと、いい場所なんだと理解できる。おまけに古い一軒家なので、家賃もそこそこ安かったのではないかと、今思えば推察できる。
 小学校の友達の家もさまざまだ。金持ちの子の家は広く2階建てのうえに地下室まである。どんな職業なのだろうか。貧乏な子はとことん貧乏だ。6畳一間で、共同キッチン共同トイレ、風呂なしである。ここにトラックの運転手の親父と2人で生活している。母親は亡くなっていない。みかん箱のようなものの上に位牌と写真があった。
 幼いながらもこの差に強烈に反応してから貧富の差について考えていた。まさに”親ガチャ”であろう。もっとも金持ちの子は金持ちであるがゆえの苦労があり、貧乏の子は貧乏なりに幸せはある。とは思う。
 
 一時期、一億総中流化社会といわれたバブル期の日本も、崩壊し、今、貧富の差が大きくなってきているのをひしひしと感じる。もっとも貧乏人はそれを卑下するわけでもなく、結構アッケラカンとしている。それはそれなりに生活できているからだ。
 それより貧乏な人はホームレスになったりしている。宮部みゆきの古い小説なんか読んでみると、本当につらい人はいるのだなと思う。
 世界に目をむけてみると、もっともっと貧乏な人はいる。親ガチャならぬ国ガチャだ。まさにSDGsの1番目の目標だ。
”貧困をなくそう”。
 何ができるか考えていかなければならない。
 

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