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下宿

 受験が終り、大学が決まると下宿探しである。福岡市の大学に近い場所を探すのに、大学生協でいくつか案内され、母親とともに見に行った。地行地区ばかり見にいったのは、その当時はしらなかったが、母親にとって懐かしの土地だったからではあるまいか。昔ここに住んでいて空襲に襲われたことがあったようだ。太平洋戦争の福岡大空襲だ。
 3件目くらいで、一軒家の2Fが下宿になっているところを母親が気に入った。男子のみで、トイレ風呂共同で、掃除をする義務もないのは僕も気に入った。6畳1間でキッチン付である。下宿料も他より安くて¥11,000であった。窓から外をのぞくとすぐ海であった。
 ここに決め、家主のおばさん(おばあさん)と契約を結んだ。あとの話になるが、息子は防水工事の社長で、何度かバイトでお世話になった。確かK先輩やT先輩にも紹介したことがある。防水工事なので、朝早いのは平気だったが、高い所での作業が高所恐怖症の僕には合わなかったが、バイト料が高かったので、我慢して頑張った。ネコ(一輪車)も碌に動かせない戦力にならない僕をよくクビにしないで雇ってくれた。
 話はそれたが、下宿が決まると、再び大学生協で布団やら机やらを買いに行った。生協の店の中で矢沢永吉の「ROCK’N MY HEART」がかかっているのがやけに印象的だった。新発売であったポカリスエットを初めて飲んだのも覚えてる。スイカ汁みたいな味がした。
 すべて終わり、母親も帰ると、ここが初めての自分の城だと思うと妙ににやけてしまう。同居人とはほとんど接触はなかったが、山口からきたC君とは一緒にシーナ・イーストンのコンサートにいったことがある。1学年下には幼稚園で一緒だった男がいた。(お互い覚えてはいないけれど、ひょんなことから話題になり、知った)4年生の時には同じクラブに誘った男がおり、2人でよく飲んだ。1名、女の子を誘い込んで、いいことをしてしまったので、翌日、大家さんに追い出されてしまった奴もいた。
 僕も女の子を呼んですき焼きかなんかしたこともあったけど、変なことはしなかったので、4年間、ここで過ごすことができた。
 大学の友達が毎日のようにきて、酒を飲んだりしゃべったりした。押し入れで趣味の写真の現像をしたりした。大学の先輩とテツマン(徹夜麻雀)したこともあった。それから一睡もせずにアルバイトにいったこともある。

 懐かしい下宿だったが、卒業すると疎遠になった。そのうち海が埋め立てられ、福岡博が開催され、福岡ドームも誕生した。その間に下宿はなくなってしまった。廃業して息子さんのところへでもいったのであろうか。今となっては調べる術もない。
 青春の海(ゴミが流れ着いて汚かったけど)は消え、下宿屋も消え、都市高速ができて、そしてひろがり、地下鉄も然り。福岡市はどんどん変わっていった。
 そういえば後年、近くの福浜にも住んだことがあるのだが、朝仕事に出て、夜帰ってきたら、道が一変して1車線が2車線に変わっていたことがある。あれはびっくりした。一瞬どこかわからなくなってしまった。黒門川が暗渠になって道幅が広くなったのである。しばらく前からシートで覆って工事はしていたのではあるが。
 今度は天神まで一変してしまう。僕の居場所はもう福岡市にはない。
 
 


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