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左党(ショートショート)

 定年退職をし、再雇用にも応じ、65歳を迎え、年金生活に入る。もうこれ以上働こうなどとは思いもしない。中には70歳を過ぎても働いている人がいるが、そうまでしないと生活がたちゆかないのか、ただ単に仕事が好きなのかはわからないが、俺には理解できない。
 とにかくこれからは好きなことをしよう。長生きなんてするつもりもないので、好きな酒は好きなだけ飲もう。コレステロールがなんだ、血糖値がなんだ、血圧がなんだ、俺には関係ない。好きなことを好きなだけするんだ。
 運動なんてまっぴらごめんだ。体脂肪や内臓脂肪なんてくそくらえだ。このままデブになったってかまやしない。どうせ後は死ぬだけだ。好きなことをして、生きていかないと何のための人生であろうか。
 と考えていたら、あっという間に体調が崩れ、食欲も薄れてしまった。あれだけ好きだった酒はとめられた。
 しまった。まだ60代なのに、このまま死んでは折角払ってきた年金が勿体ないじゃないか。病院代も馬鹿にならない。
 病状は癌であった。どうやら手術をすれば治るらしい。気休めでいってくれているのかもしれないが、とにかく治してもらわないことには何もできない。

 気が付いたら俺はお棺の中で白い着物を着て寝ていた。どうやら死んだみたいだ。思えば馬鹿らしい一生だった。側らで妻が泣いているのが聞こえた。息子と甥っ子も近くにいる。
「まだ若かったから癌の進行が速かったんでしょうね」
 甥っ子がいった。そうか手術は失敗したのか。これまで働いてきたのは何だったのだろうか。現役の頃は体調管理に気をつけて、酒もほどほどにしていたつもりだったんだけどなあ。それでも普通の人よりは多かったのかなあ。
 もうこれで酒も飲めなくなくなっちゃった。
 葬式を終えると俺の体は火葬場へと向かった。俺は霊体となって、自分の体に念仏を唱えた。その時、後ろに気配がして、振り返ると、貧相なおっさんが立っていた。おっさんは名刺を俺に差し出した。死神と書いてあった。
「お迎えに上がりました」
 ああそういうことね。未練はあるけど、仕方ないね。俺は死神に連れられ、あの世に向かった。
 あの世では閻魔大王の裁判の順番待ちで、控室に通された。控室では天国と地獄のVTRがでかいスクリーンで流されていた。生きていた頃悪い事ばかりをしてきた奴らは、それを見て青ざめ、そういうことに心当たりのない人は平然としていた。やがて俺の順番が来た。
「津山仙吉」閻魔大王がそう呼んだ。俺のことではない。俺は慌てて
「私は、津島仙吉ですけど」と訂正した。閻魔大王は慌てて閻魔帳を確認する。「あっ、ごめん、人違いじゃった。帰ってよろしい」
 そういわれたけど、もう体、燃えちゃっているんですけどー。

 と、そこで目を覚まし、俺は必死で棺桶から抜け出そうともがいた。それに気づいた焼き場の人が、慌てて棺桶を外に出した。火を点ける直前であった。間一髪というやつである。
 参列者はみな、一様に驚いた。それはそうだろう、死んだはずの人間が生き返ったのだから。妻は腰を抜かし、親戚の婆さんは失禁し、坊さんは念仏を大声で唱えまくった。
 俺は棺桶から出るに出られずに、もがいていた。焼き場の人が近づいて抱き起してくれた。俺はゼーゼーいいながら、蚊の鳴くような声でいった。
「酒」
 


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