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千と千尋の神隠し~完全考察~

はじめに


完全考察、と大仰に銘打ってしまいあとから見返して恥ずかしい限りなのだが、これは個人的に『千と千尋の神隠し』に対する解釈がまとまったいうか、一つの球体となったのでそれを形にしてみたものである。
あくまで自分としては、この作品をこうとらえたという範疇に過ぎず、他の意見や解釈の仕方、感じ方を否定するものでは全くないということを付け加えておく。


最近岡田斗司夫のジブリ解説にはまっている。おそらく、ジブリ作品を語らせたら彼の右に出る者はいない。宮崎駿語りさせたらそれこそ宇宙一面白い物知りおじさんであると全自分の中で評判である。

そんな感じで、『千と千尋』の完全解説も非常に腑に落ちるものであった。
もしまだ見たことがないジブリファンの方は、ぜひ一度目を通してみるのをおすすめする。見終わるころには、手元にもし”へぇボタン”なるものがあるとすれば、108へぇぐらいたまっていることだろう。

◆岡田斗司夫 千と千尋の神隠し完全解説

『千と千尋』公開当時といえば、まだ学生だった自分は親友と足しげく通い、何度も考察を巡らせたのを思い出す。
あの頃は一般人向けインターネットの夜明けであり、自作HPブームでもあった。そこかしこで非公式の私設ファンサイトが乱立し、チャットやBBS(掲示板)やおエビ(お絵描きBBS)と呼ばれる、リアルタイムに絵を書いて投稿するコンテンツを設置するところもたくさんあった。今でいうSNSのプラットフォームみたいなのを、個人がそれぞれ運営する時代だった。
そんな中、宮崎作品が好きな自分もやはり同士たちと交流すべく、各作品のファンサイトに毎晩通いつめたものだ。
中にはとんでもなく深くて博識な常連の方がいたりで、ひょっとして岡田氏もそういうところにいて、すれ違ったり何かしらのコミュニケーションを交わしていたのかもしれない、なんて思ったりもする今日この頃。

それはともかく、その頃の自分は全く浅い考察であった。それこそ、岡田斗司夫に見せたら”第一階層”で終わってるよと、鼻で笑われて終わること請け合いである。
そんなものを長々と作文形式にまでして誰かに読ませたような記憶もある。
地獄のような自分の黒歴史である。
あの時の名前も分からないインターネットの向こう側にいたファンサイトの管理人の誰か何某さん、本当に申し訳ない!

何を書いたのかはほとんど覚えていないが、ところどころ思い出すと――ハクは引っ越す前に千尋がよく遊んでいた新くできた小川の神様で、おぼれていたところを助けてもらった過去がある。しかしその川も宅地造成か何かで埋め立てられてしまい、ハクは死後の世界とのはざまであるあの湯屋に迷い込んでしまう。そこを千尋が訪れ、ハクを助けるとともに愛情の希薄な母親から独立して生きるちからを身に着ける。ハクも湯婆のくびきから離れ、千尋の守り神となって生涯を通して見守っていくハッピーエンドヤッター!みたいなことをダラダラと書きなぐっていた記憶がある。
他にも最初のトンネルは命の通り道である産道の象徴であるだとか、カオナシは現代っ子への痛烈な風刺であるとか。各主要キャラにもなんかそれっぽい解釈を垂れていた気がする。まあ、当時学生であり頭の出来もそれほど良くない自分がたどり着く結論とはこんなもんである。

若かりし頃はジブリ作品を見るたび”考察”ブームだった自分も、大人になるにつれてその熱は収まっていった。
だが、最近なんとなしに見ていた岡田斗司夫の解説を見て、ハッとさせられた。確かに千尋が川に落ちたシーンで一カットだけ不自然なTシャツの手が映っている。そこからハクは実は千尋を助けた”実の兄”ではないか、という考察にはなるほどと唸らせるだけの論拠があった。あの母親のなんだかよくわからない冷たい感じも説明がつく。
そうなってくると話は全く違ってくる。少女とイケメンショタ神様の恋物語ではなくなってくるのだ。

千尋を助ける誰かの手

そう、この映画は兄妹愛が根底にある作品だったのだ。

しかし、一つだけ腑に落ちないシーンがある。
千尋が銭婆のもとに向かう電車の中で通り過ぎて行った立ち姿の女の子だ。
男の子ではない。
女の子なのだ。

それは宮崎駿がロリコンだとか、破廉恥で真っ赤っかの豚だからだとか、そんなことだけでは説明がつかない気がするのだ。
実はあの子は、自分でも誰なのかよくわからなかった。メイとかサツキとか言われても、ピンとこなかった。あそこにいる影の人たちは、亡くなってあの世に行く途中偶然迷い込んでしまったかわいそうな魂なのだ、ぐらいにしか思っていなかった。
岡田斗司夫の解説によると、あれを節子だという人も多いらしい。それは初耳であった。だが、宮崎駿はそんな安直なことは絶対にしないらしい。
それを聞いてふむそうなのかもな、ぐらいに思っていた。だけどなんかずっと引っかかっていて、それが最近やっと腑に落ちたというか自分の中でストンと落ちてきたのだ。

『火垂るの墓』と聞くと自然と眉をひそめてしまう自分がいる。すごい作品だと思うし、あれを描き切った高畑勲というのはとんでもない監督だと思う。なんだけど、あれを好きだという人を自分は知らない。かくいう自分も、あまりに辛くて救いがないので無意識のうちに避けていた作品でもある。

◆岡田斗司夫 火垂るの墓完全解説

もちろん、通しで見たことは何回かある。でも、もし自分の子供にあれを見せたいかと問われれば、しばらく考え込んでしまう。
現実は大概あんなもんである。救いもなければ助けもない、そんな人知れず、人目にすらつかなかった悲劇がこの世界には星の数ほどあり、それがデフォだ。

妹を餓死させてしまった兄。兄が妹より長生きできたということは、その分妹より食べていたということになる。とどめを刺すならば、”妹の分を減らしてまで清太は食べていた”ということだ。なにより、親戚の家に我慢して居さえしていれば、清太が家を飛び出す決断をしさえしなければ、妹を死なせることはなかったのだ。
そんな業を一身に背負って死んでいった自分を見つめるシーンから始まる。現代になって尚、地縛霊として成仏できずにいる。いやいや……辛すぎるだろ。清太だってまだ子供だよ、誰も責められないよ。そんなことを、やはり岡田斗司夫の解説動画を見て思ったものだ。

さて。
ではそれと『千と千尋の神隠し』は何の関係があるのかって?
時系列を踏まえてまずよく考えてほしい。

川で溺れた千尋を助けて亡くなった兄。兄は自分の命を投げうって大切な妹を助けた功により、神様(見習い)として生まれ変わった。だが湯婆により名を無くし記憶を全て奪われたハクの命を、妹が助けた。全てを取り戻したハクは、千尋を見守っていくため現世へと帰る。

たぶん、千尋は兄が自分を助けて死んだことを知らない。もしそれを知ったら千尋はきっとショックを受けるだろう。けれど、成長した千尋もまた兄の命を助け、結果として恩を返している。いつか彼女がすべての事実を知る時が来たとしても、きっとそれが救いになる。

つまり、これは『火垂るの墓』への宮崎駿の強烈な意趣返しなのだ。

まとめるとこうなる。

清太→(死なせる)→節子
清太(死亡)→地縛霊
≪BAD END≫

ハク→(助ける)→千尋
ハク(死亡)→神様
千尋→(助ける)→ハク
≪HAPPY END≫

『千と千尋』は『火垂るの墓』のきれいな逆相関となる。

よくもあんな映画を作りやがって。と宮崎駿が思っていたかどうかはわからないが、『火垂るの墓』はジブリ作品の中でも異色の作品となっている。観た人がワクワクしたり、ちょっとなんか元気をもらったり、胸を打たれる感動があったり。そんなポジティブな要素でジブリ作品は溢れていたし、宮崎駿作品は特にその色が強い。
救いもなく、見た者がただただ悲劇に打ちのめされるものを、宮崎駿は果たしてどう思っていたのだろうか。自分だったら、心のどこかにとげのように引っかっていたかもしれない。

『火垂るの墓』、『千と千尋』の両作品に共通するのは兄妹愛である。だけど、清太と節子のほほえましい兄妹の交流の裏には、とてつもなく淀んだ兄の業が流れている。
これを描いた高畑勲の作家性は素晴らしいものがあると思う。あれを実写でやったらそれこそ世界的に評価される作品になれたのではないか。

けれど、アニメーションにそれを求めるかというと、自分はNOである。やっぱりアニメには嘘でもいいから希望とか、夢とか、ワクワクとか、そういうものが少しでも混じっていてほしい。アニメーション(命を吹き込む)という名の通り、どこまで行っても所詮は人の作り物の域を出ないのだから。
そこら辺はきっと、宮崎駿も同じ考えなのではないかと思う。

ここまでくると、あの電車から見た影の女の子は誰なのかは言うまでもない。

あからさまに観客の目を奪う形で、あれほどの強烈なインパクトをあのシーンに与えている事実。それを、岡田斗司夫が言うように何の関係もないキャラをただ置いただけ、みたいなことを本当に宮崎駿はするだろうか。

真相は宮崎駿の胸の中である。

なので、ここから先は「それってあなたの感想ですよね」の領域にすぎないのだが、せっかくなんだか降ってきたような気持になっているので最後までひりださせてほしい。

あれはずっとずっと清太を待ち焦がれている節子の姿なのだ。

時空のゆがんだ世界だからあそこまで成長するのにどれほどの時間が経ったのかはわからない。けれど、スカートをはいて女の子として成長が見られるほどには、この世界で過ごしてきたことがうかがえる。
一人ぼっちで待っていたのか?仲間は居るのか?どんな冒険をしてきたのか?それはあのシーンからは全く伝わってこない。けれど、たった一つ分かることがあるとすれば、“清太は来なかった”ということ。

千尋を助けたハクは、神様になった。そのおかげで千尋と再会できた。でも、節子を自分の業で死なせてしまった清太は、地縛霊として成仏すらできず現世を漂っている。
だから節子と清太は永遠に逢うことはできない。

そう考えると、このワンシーンはとてつもなくエモいものとなる。
いやいや、それは考え過ぎだろうという人がいるかもしれない。
確かに、これは机上の空論だ。
ただの一個人の感想だし、異論も認める。

けれど、あの子がおかっぱであることの意味。おさげでも、ぼさぼさの短髪でもない、おかっぱであることが自分の中では決定打になったのだ。

ちなみに、『火垂るの墓』本編では冒頭で節子が清太の遺体に駆け寄ろうとし、それをそっと引き止め微笑む兄と目が合う、というなんとなく救いのあるような絵になっている。
だが、原作者の野坂昭如は『火垂るの墓』を作るにあたり高畑勲に対して、節子が死んで荼毘に付す間、清太はこれでもう妹の面倒を見なくてもいいとほっとしている様をきちんと描くよう何度も伝えている。
これは、原作者自身の実体験でもある。
妹の分を減らしてでも、餓死させてしまってもなお生きようとしてしまった、妹の死を少しでも喜んでしまったその清太の業は、彼をあの世にすら送らせてはもらえなかった。いや、あの何万回何億回と自分が死ぬ瞬間を見せつけられる様は、無間地獄ともいえるかもしれない。
そんなところに、何の罪もない純真無垢な象徴ともいえる節子が共にいるのは少々無理があるのではないか。果たしてその結末を宮崎駿がよしとしただろうか。
あの作品の本当の悲劇は、兄一人全てを背負って永遠の時間を地獄に向き合わなければいけないこと、そして節子は兄を待つが二人は二度と逢うことはできない、ということにあるのだ。
と、宮崎駿が思ったとしても何ら不思議はない。
もちろん、これも何の実証のないただの一個人の推考に過ぎない。

くしくも、千尋は兄を助けるために銭婆のところへ向かう途中である。それをまるで見送るように、取り残されるように画面から流れ消えていく節子。

果たして、これは偶然だろうか。
姉妹愛は『トトロ』にある。
少年少女の恋愛なら『ラピュタ』にある。
けれど、兄妹愛は『火垂るの墓』でしか描かれてこなかった。
これを、宮崎駿は意識してか意図せずかはわからないが、上書き修正しようとしているように自分は思えてならないのだ。

節子が兄からしてほしかったこと、そして兄にしてやりたかっただろうことを一身に受けて前に進む千尋。
そんなことを期せずして、二人の視線が交差した。

そう考える方が、この作品は自分にとって面白い。

駅で待つ少女

この時の構図に注目してほしい。千尋たちは画面向かって上手から下手(右から左)に移動してることに対して、この少女は下手から上手(左から右)へと流れていく。
これは演劇などでよく使われる手法で、上手から下手はネガティブな要素、または状況から離脱する、役を交代する(降りる)、などの意味を持つ。
一方下手から上手へと進むことによって、ポジティブな要素や、状況を進めるといった物語の主役としての立ち位置、意味合いがある。
ここら辺に関しての話は、岡田斗司夫のナウシカ完全解説でも触れられていて大変面白かったので是非ご覧いただきたい。

◆岡田斗司夫 風の谷のナウシカ完全解説

あれ?それでは本来逆ではないのか、そう思うかもしれない。
しかし、それについては以下で詳しく解説する。

まず、宮崎駿が他作品、とりわけ他人のキャラクターを安易に作中に登場させるなんてありえない、という意見について話そう。
確かに、自分もそう思う。けれど、もう一つだけ忘れていることがある。
それは宮崎駿は執念深い、怨念深い男であるということだ。彼は現在でも未来でもない、過去に生きる男である。もっと言えば、過去に執着する、囚われやすい人でもあるといえる。

元々彼の作品の根底にあるのは、戦争中の原体験にある。周りはみな貧しく飢えにあえいでいた中で、比較的裕福だったうしろめたさを抱えていた。
何より、一家が乗ったトラックが疎開する道中で出会った子供を抱いた母親に一緒に乗せてほしいと懇願されたとき、場所がないのを理由に断わられているのをただただ見ているしかなかったという、その時のやるせなさ、自責の念みたいなものが、のちの宮崎アニメの骨子を形成することとなる。
つまり、次は助けられるものならば絶対に助けたい、という気持ちだ。

実はその過去において、宮崎駿は自身の作品のキャラを使われ、その屈辱的技法で痛烈に批評されたことがあった。
高畑勲監督の『平成狸ぽんぽこ』における、百鬼夜行の中のワンシーンだ。

逆行する宮崎駿作品のキャラクター

空を駆けるたぬきたち百鬼夜行の一群と、高畑勲作品のキャラクターたちの向きとはなぜか反対の向きに、宮崎作品のキャラクターは進んでいく。
構図としては、高畑勲のキャラクターたちは左から右へ正の向きで流れていく。一方、宮崎のキャラクターは右から左と負の動きをすることとなる。
試写会の上映中これを見た宮崎駿は、一人ずっと泣いていたという。
それが意味することとは何なのか、それに関してはこれまた非常に面白いので、ぜひ岡田斗司夫の平成狸ぽんぽこ完全解説をご覧いただきたい。

◆岡田斗司夫 平成狸ぽんぽこ完全解説

東映の新人時代から慕う、兄貴分ともいうべき高畑勲にダメ出しされた彼の心中は察するに余りある。

さて、千と千尋の電車のシーンに戻ろう。
千尋たちは、『ぽんぽこ』で高畑に描かれたとおり、やはり上手から下手へと移動していく。そして、”節子”なるものの少女は、『ぽんぽこ』の流れの通り左から右へと消えていく。

ここから何を読み解くことができるだろうか。
それは、「俺は確かに高畑勲の言う通りかもしれない。だけど、高畑の作品は正しいのか、君たちは本当にそれでいいのか、これをよく見てくれ」と、あえて『ぽんぽこ』の時にやられた構図そのままを使うことによって、観る者にすべてに訴えかけてきているように思えてならない。

もし、『火垂るの墓』に納得のいかない宮崎駿が高畑勲に対して出すメッセージを込めるとしたら、同じ手法でやり返したとしてもなんら不思議はないと思うのだ。

もちろん、デコイはたっぷりと用意する。
なんだかわからないようにあそこ一帯の人たちを黒影に塗りつぶし、なんとも意味ありげな、まるで黄泉の国の一角のような雰囲気をそこはかとなく醸し出す。
事前に群衆をわらわらと配置移動させ、時に男の手にひかれた小さな女の子というこれまた意味ありげなワンカットも追加する。
当の本人も少し成長させて、もんぺ姿からちゃっかり女の子らしくスカートなんか履かせちゃったりして。
そうして周到に周到を重ねて用意したものだとしたら――。

宮崎駿、かわいくない?


おわりに


宮崎駿の声が聞こえる。

「どうだ、『火垂るの墓』はこれだけ虚しいんだぞ。やっぱり兄妹愛はこうあるべきだ、そう思うだろう?」

最後にもう一つ、聖書にこんな言葉がある。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」

兄妹でも同じことが言えるだろう。
宮崎はy……釜じいは言った。「愛だ、愛」と。

もしかしたら、『千と千尋の神隠し』とは、宮崎駿なりの『火垂るの墓』の供養なのかもしれない。

――なんだか、結局また黒歴史を上塗りしてしまっているような気がします。ここまで長文駄文をお読みいただいたこと、心より感謝申し上げます。

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