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【沖縄戦:1945年4月14日】第1防衛線の戦況の停滞 「アヲイソラ ヒロイウミ」─高江洲小学校の開校 ルーズベルトの死と第32軍の対米プロパガンダ

14日の戦況

 昨日に引き続き、第1防衛線における米軍の攻撃は、活発ではなかった。4月1日の上陸以降、破竹の勢いで南下した米軍であったが、主陣地帯での第32軍の頑強な抵抗が続いたことをうけ、米軍は次期攻勢に向け態勢を立て直す準備中と推測された。

 四月十四日から十九日までは、米軍散兵線には実質的な変更はなかった。偵察隊が出て日本軍の防衛陣地をさぐり、砲兵隊や艦砲や飛行機が目標を選んで、迫撃砲、砲兵陣地、基地施設を破壊した。地上軍の偵察隊や、飛行偵察隊は、第二四軍団前方の陣地を調べ、十九日の予備砲撃作戦で破壊すべき洞窟、塹壕、補給地、砲座などを報告した。米軍前線の後方では絶え間ない作業が行われていた。
 ホッジ少将が、「この戦争は九十パーセントが補給線で、あと十パーセントが戦闘だ」と述べたとおり、海岸では、昼夜の別なく陸揚げ作業がつづけられ、おもな補給路はブルドーザーをかけて拡張し、弾薬や補給物資を積んだトラックや水陸両用車が、夜を日についで海岸から列をなした。戦闘で重きを置かれたのは火炎放射器である。これは四月十九日の戦闘ではじめて使用されることになっていた。
 新しい部隊がぞくぞく送りこまれた。予備軍として海上にいた第二七師団は、四月九日、読谷村渡具知に上陸し、攻撃増援軍となり、第二四軍団に配属されて、第九六師団とともに西部を固めた。四月十五日までには、第二七師団は配置につき、攻撃準備態勢をととのえていた。
 このほかさらに一千二百の増援部隊が、第七師団と第九六師団に送られ、攻撃部隊に加わった。これらの増援部隊はサイパンで訓練をうけ、整備をととのえ、数時間で沖縄の部隊と交替した。兵は総体的に若く、健康で精神力も平均以上、彼らの到着は、米軍歩兵部隊の兵員の士気をおおいに高揚させたが、第二四軍団自体としてはまだ緊張をほぐさなかった。前途には図りしれない戦闘が待ち構えているのである。

(米国陸軍省『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)

 第32軍はこの日の状況について、次のように報告した。特に主陣地帯での戦況停滞の分析と、南進する米軍と対峙し夜間攻撃も実施した第62師団の戦力低下の報告に注目されたい。

一 敵ハ我カ第一線ニ強圧ヲ加へツツ通路ノ構築、軍需品ノ前送、砲兵ノ推進等本格的攻撃ヲ準備中
戦線大ナル変化ナシ 敵機ノ跳梁急激ニ増加ス
二 第六十二師団ハ半箇月ノ戦闘ニ十箇大隊中七箇大隊ノ戦力三分ノ一乃至二分ノ一ヲ喪失 無傷ナルハ僅カニ三箇大隊ナリ
三 第三十二軍ハ戦略持久ヲ一般作戦方針トシテ左ノ如ク部署ス
1 歩兵第二十二聯隊ヲ第六十二師団長ノ指揮下ニ入レ陸正面ノ強化ト中城湾方面ノ敵ノ新企図ニ備フ
2 第二十四師団及独立混成第四十四旅団ヲ陸海正面ノ主陣地ニ拠ラシム
四 国頭支隊正面(一八〇〇)
 敵ハ主力ヲ以テ八重岳周辺、一部ヲ以テ谷与岳[タニヨ岳か]ヲ包囲 逐次攻撃ノ度ヲ強化シアルモ支隊ハ極メテ志気旺盛堅陣ニ拠リ果敢ナル反撃斬込ヲ実施中
五 来襲機数(〇六四五~一八三五)
 本島七〇〇機、砲兵陣地竝ニ後方ニ対シ焼夷攻撃ヲ企図ス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 また沖縄南部の第24師団は、首里南3キロの津嘉山、津嘉山南4キロの東風平地区に予想される米軍の空挺降下に対する準備を各隊に命じた。

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早朝の陽光を浴びながら水田の道を進む兵士 1945年4月14日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80-31-4】

沖縄北部の戦況

国頭支隊の戦闘 
 沖縄北部ではこの日朝8時ごろより、米軍が飛行機の対地攻撃と砲撃の支援の下、八重岳の国頭支隊への攻撃を開始し、午後には戦闘が激化した。
 八重岳東方の伊豆味方面の米軍は、八重岳、嘉津宇岳の陣地を攻撃したが、守備隊は陣地を保持した。八重岳西方の渡久地方面では、207高地南北の線に米軍が進出し第4中隊正面を攻撃してきたが、部隊は地形を利用しつつ急襲火力を発揮するなどして米軍の前進を阻止した。
 第32軍司令部は、この日夕方の沖縄北部の戦況を次のように報告している。

 四月十四日一八〇〇国頭支隊方面
 敵ハ主力ヲ以テ八重岳周辺一部ヲ以テ谷與岳[第3遊撃隊が拠点を置くタニヨ岳のことかー引用者註]ヲ包囲、逐次攻撃ノ度ヲ強化シアルモ支隊ハ極メテ志気旺盛堅陣ニ依リ果敢ナル反撃斬込ヲ実施中

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)
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4月9日~19日までの八重岳の作戦経過要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

 シャプレイ大佐の率いる海兵三大隊は、四月十四日、八重岳の東部を攻撃し、夕方までには山の第一稜線を完全に確保した。ここでは退却する日本軍が機関銃や小銃で撃ちまくってきたが、その数はたいしたことはなかった。だが、日本軍は海兵隊の行動をよく観察していた。接近路を機関銃や迫撃砲で待ち構え、いつもの戦法で、二、三の部隊を素知らぬ顔で通過させ、その背後から射撃してくるのだった。
 米軍の将校は、よくねらわれた。だから指揮するために地図をもっていたり、あるいは指揮棒をにぎっていたり、はてはピストルを目にみえるようにしてもっていることは、みずから指揮者として相手に知らしめるようなもので、危険このうえないものだった。どちらかというとカービン銃やライフルをもっているほうが、より無難だといえたわけである。
 こういう状況にあったので隊は速やかに散兵、そして多くの場合、進撃そのものが日本軍の前哨との攻防戦の連続であった。
 海兵隊は堅固な陣地のある小島での戦闘には慣れていた。だが、沖縄での戦闘は過去の経験からではなく、それこそ「教科書のなかからそのまま抜き出した」演習のような戦術を使用しなければならなくなったのである。こうした演習のような戦術をくりかえして、四月十五日、海兵隊はついに最後の攻撃を試みるにいたった。

(上掲『沖縄 日米最後の戦闘』)

第3遊撃隊の戦闘 
 第3遊撃隊(第1護郷隊)はこの日、隊本部情報員3名(県立3中生、3中鉄血勤皇隊員もしくは3中通信隊員か)が羽地大川口(田井等南方地区)で米軍偵察隊を襲撃、3名を殺傷するも、情報員2名が戦死、1名が負傷した。また第2中隊の数名が川上(名護北東4キロ)の米軍を奇襲し、幕舎爆破2、機関銃破壊1、被服奪取若干の戦果をあげた。これ以外にも第2中隊の3名が伊差川(名護北東3キロ)および源河(タニヨ岳北北東4キロ)の米軍を奇襲し、伊差川で幕舎爆破3、源河で分教場2ヵ所を爆破した。

第4遊撃隊の戦闘 
 第1次恩納岳の戦闘を展開する第4遊撃隊(第2護郷隊)だが、この日から数日、米軍は恩納岳に向けて戦車や迫撃砲で射撃を行ったものの、それ以上の攻勢はなかった。こうした状況を見て、岩波隊長は、眼鏡山を放棄し防御正面を縮小して陣地の強化に努めた。

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炎上する集落を通り抜ける海兵隊のトラック:沖縄県公文書館【写真番号86-28-4】

「学校」の再開

 米軍占領地域であった現在のうるま市前原地区一帯は、高江洲市と改称された。同地にあった仲喜洲国民学校は、戦禍を免れ、損傷もなく残っていたようだが、同校の敷地内にこの日、高江洲小学校が開校したといわれる。
 これまで、同じくうるま市にあった石川収容所で1945年5月7日に開校した石川学園が、戦後沖縄最初の「学校」といわれているが、様々な史資料を検討すると、この高江洲小学校が最初の「学校」と考えられるそうだ。
 高江洲小学校の開校には、日本文学研究者のドナルド・キーン氏が関わっているとみられる。高江洲小学校の校長を務めた浦崎康華氏による浦崎文書には、米軍の「キーン中尉」が高江洲小学校の設立開校に関わり、浦崎氏を校長に任命したとあるが、このキーン中尉とは当時沖縄にいたドナルド・キーン氏と考えられ、キーン氏自身もそれを認めている。
 生きるための行為とはいえ、米軍にとっても基地に侵入し、食糧などを「戦果」と称して奪う子どもたちは悩みのタネであった。軍用車両に近づいてお菓子などをねだる子どもは邪魔であったし、交通事故なども多発したそうだ。そうしたなか学校の再建は米軍にとっても好都合であった。
 他方、知識人であり社会的影響力のある教員という存在は、米軍にとって警戒すべきものでもあった。また教員たちも戦争に加担した悔悟のなかにあり、教育をうけるべき子どもたちも心身ともに傷ついていた。そして次代の教員となるべき師範学校の若者たちは、鉄血勤皇隊などで命を落としていた。収容所で再建された教育という事実に、戦後沖縄教育のスタートの複雑さを読み取れる。
 ただし、このころの学校といっても、教科書や文具、学用品は皆無の状態にあった。1945年8月、米海軍軍政府内に教科書編修所が設置され、仲宗根政善氏を中心に初めての教科書づくりが始まった。軍国主義、超国家主義的な内容は禁止などという米軍の条件下、壕から古い教科書を探し、また焼け跡から資料を拾って、まずは国語と算数の教科書をつくったという。
 こうして生まれたガリ版刷りの初等学校1年生用『ヨミカタ』の教科書は、「アヲイソラ ヒロイウミ」との一節から始まる。文字どおり何もかも「消滅」した沖縄の教員と子どもの前にあったのは、青い空と広い海だけであり、当時の人々の心象風景ともいえよう。
 1948年に入ると本土からはじめて教科書70万冊が入荷し、ガリ版刷りの教科書もその使命を終えることになる。

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体育の授業で綱引きをする児童 高江洲で撮影:沖縄県公文書館【写真番号06-19-4】

ルーズベルトの死と第32軍のプロパガンダ

 12日に米ルーズベルト大統領が死去したことと、これをうけて軍の国内外向けプロパガンダが行われたことは既に述べた通りだが、第32軍はこうした軍の方針に敏感に反応し、沖縄現地で米軍に向けてプロパガンダを行った。
 第32軍はこの日、以下の宣伝ビラを通じ米軍にメッセージを伝えている。

 「ニュースオブニュース」第1号 1945年4月14日土曜日
 ルーズベルト大統領 突然死
 第6海兵師団諸子へ
 初めて諸子にお話を出来ますことを光栄に存じます。4月12日午前3時30分、ルーズベルト大統領の生命が突然断たれたことをUP電にて知り、深い哀悼の意を表します。事実により証明されたものでありますが、信じられない話であります。
 第6海兵師団諸子! とりわけ第3海兵軍団第15海兵連隊及び第29海兵連隊の諸君! 今は亡き大統領に対しまして、心からお悔やみ申し上げます。大統領死亡の真の原因は何だとお思いになられますか。沖縄近海にいる米軍は、惨めな敗北を経験したことでしょう。これこそが、彼を死に追いやった直接の原因でなかったとするならば、穏やかに彼の責務を軽減できたでしょうに。諸子のほとんどのものは、米軍が殲滅されつつある現在の戦況に関する正確な知識を持っているとは考えられません。それゆえ諸子のごとくわずかでもいいですから、悲惨な現状を正確に知る必要があります。
 夥しい数のえり抜きの艦載空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦が諸子を守るため、さらに諸子等と連携し作戦を実施するため、それぞれの持ち場で、また沖縄近海で頑張って踏みとどまっていましたね。それら艦船の9割は、既に陸から空からと日本軍特攻機により撃沈かさもなくば損傷を被ってしましました。かくして数にして500隻もの壮大な「米国海底艦隊」が、この小さな島の周囲に沈んでおります。
 今までに諸君は、トカゲが尻尾を切り落とし、それがピクピク動いているのを見たことがあるでしょう。このトカゲの切られた尻尾の状態が、諸君等のそれとうり二つだと言ったらどう思いますか。トカゲの性質から、血が滴り落ちようとも、相手の愛情は期待することは出来ません。その結果、脳卒中に襲われるのです。だが、相手の不幸をあげつらうことはある意味悪であります。私どもは今まで何も書かなかったですが、以上が今般書面を認めた理由であります。
 さて、賢明にして細心にも現在の戦況を見渡すこと、ものごとをよく考えようとするのは、今こそです。 沖縄陸軍情報部

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 この宣伝ビラは沖縄北部に進出した海兵隊に向けて撒布されたものであることから、沖縄北部の特務班が大本営の指示をうけ、北部地区で独自に海兵隊に向けて宣伝ビラを作成し、撒布したといわれている。
 この時期、次のような宣伝ビラも撒布されたそうだ。

 米軍将兵へ
 我々は、故ルーズベルト大統領について深い哀悼の意を表します。彼の死と共にここ沖縄でも“米国の悲劇”は広がっています。あなた方の空母70%、戦艦の73%が沈没し、15万人が死傷したのをご存じでしょう。亡くなられたのは大統領のみならず、(米軍の)誰でもが、こうした壊滅的な損害を聞き、悩み苦しみのあまり死んでいくでしょう。あなた方の指導者を死に追いやった大損害で、あなた方はこの島で孤児にさせられるでしょう。日本軍特攻機は、最後の駆逐艦にいたるまで米艦船を撃沈するでしょう。あなた方は、近いうちにそれを目の当たりにするでしょう。

(同)

 この宣伝ビラは沖縄中部で撒布されたと見られている。沖縄北部で撒布されたものとは米軍の被害についての数字、表現が若干異なっていることから、情報の入手元やビラの作成元も異なると考えられるが、どちらにせよ第32軍自身がそうした戦果や米軍の被害を事実と信じ込んでいたところに、第32軍側の壮大な錯誤があった。
 第32軍が作成し撒布した宣伝ビラはこれ以外にもあるが、それについてはまたあらためて取り上げることになるだろう。

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ルーズベルト大統領の追悼式:沖縄県公文書館【写真番号93-24-2】
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辺戸岬でルーズベルト大統領へ弔意をあらわす半旗と歩哨:沖縄県公文書館【写真番号93-29-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川満彰「沖縄本島における米軍占領下初の学校「高江洲小学校」─米軍占領下初の学校設立の再考とその教員と子どもたち─」(『地域研究』第7号)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版

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島袋で再開された「学校」 新垣といわれる先生が青空教室で子どもたちに授業をしている:沖縄県公文書館【写真番号06-09-2】(siggraph2016_colorizationでカラー化)