14日の戦況
昨日に引き続き、第1防衛線における米軍の攻撃は、活発ではなかった。4月1日の上陸以降、破竹の勢いで南下した米軍であったが、主陣地帯での第32軍の頑強な抵抗が続いたことをうけ、米軍は次期攻勢に向け態勢を立て直す準備中と推測された。
第32軍はこの日の状況について、次のように報告した。特に主陣地帯での戦況停滞の分析と、南進する米軍と対峙し夜間攻撃も実施した第62師団の戦力低下の報告に注目されたい。
また沖縄南部の第24師団は、首里南3キロの津嘉山、津嘉山南4キロの東風平地区に予想される米軍の空挺降下に対する準備を各隊に命じた。
沖縄北部の戦況
国頭支隊の戦闘
沖縄北部ではこの日朝8時ごろより、米軍が飛行機の対地攻撃と砲撃の支援の下、八重岳の国頭支隊への攻撃を開始し、午後には戦闘が激化した。
八重岳東方の伊豆味方面の米軍は、八重岳、嘉津宇岳の陣地を攻撃したが、守備隊は陣地を保持した。八重岳西方の渡久地方面では、207高地南北の線に米軍が進出し第4中隊正面を攻撃してきたが、部隊は地形を利用しつつ急襲火力を発揮するなどして米軍の前進を阻止した。
第32軍司令部は、この日夕方の沖縄北部の戦況を次のように報告している。
第3遊撃隊の戦闘
第3遊撃隊(第1護郷隊)はこの日、隊本部情報員3名(県立3中生、3中鉄血勤皇隊員もしくは3中通信隊員か)が羽地大川口(田井等南方地区)で米軍偵察隊を襲撃、3名を殺傷するも、情報員2名が戦死、1名が負傷した。また第2中隊の数名が川上(名護北東4キロ)の米軍を奇襲し、幕舎爆破2、機関銃破壊1、被服奪取若干の戦果をあげた。これ以外にも第2中隊の3名が伊差川(名護北東3キロ)および源河(タニヨ岳北北東4キロ)の米軍を奇襲し、伊差川で幕舎爆破3、源河で分教場2ヵ所を爆破した。
第4遊撃隊の戦闘
第1次恩納岳の戦闘を展開する第4遊撃隊(第2護郷隊)だが、この日から数日、米軍は恩納岳に向けて戦車や迫撃砲で射撃を行ったものの、それ以上の攻勢はなかった。こうした状況を見て、岩波隊長は、眼鏡山を放棄し防御正面を縮小して陣地の強化に努めた。
「学校」の再開
米軍占領地域であった現在のうるま市前原地区一帯は、高江洲市と改称された。同地にあった仲喜洲国民学校は、戦禍を免れ、損傷もなく残っていたようだが、同校の敷地内にこの日、高江洲小学校が開校したといわれる。
これまで、同じくうるま市にあった石川収容所で1945年5月7日に開校した石川学園が、戦後沖縄最初の「学校」といわれているが、様々な史資料を検討すると、この高江洲小学校が最初の「学校」と考えられるそうだ。
高江洲小学校の開校には、日本文学研究者のドナルド・キーン氏が関わっているとみられる。高江洲小学校の校長を務めた浦崎康華氏による浦崎文書には、米軍の「キーン中尉」が高江洲小学校の設立開校に関わり、浦崎氏を校長に任命したとあるが、このキーン中尉とは当時沖縄にいたドナルド・キーン氏と考えられ、キーン氏自身もそれを認めている。
生きるための行為とはいえ、米軍にとっても基地に侵入し、食糧などを「戦果」と称して奪う子どもたちは悩みのタネであった。軍用車両に近づいてお菓子などをねだる子どもは邪魔であったし、交通事故なども多発したそうだ。そうしたなか学校の再建は米軍にとっても好都合であった。
他方、知識人であり社会的影響力のある教員という存在は、米軍にとって警戒すべきものでもあった。また教員たちも戦争に加担した悔悟のなかにあり、教育をうけるべき子どもたちも心身ともに傷ついていた。そして次代の教員となるべき師範学校の若者たちは、鉄血勤皇隊などで命を落としていた。収容所で再建された教育という事実に、戦後沖縄教育のスタートの複雑さを読み取れる。
ただし、このころの学校といっても、教科書や文具、学用品は皆無の状態にあった。1945年8月、米海軍軍政府内に教科書編修所が設置され、仲宗根政善氏を中心に初めての教科書づくりが始まった。軍国主義、超国家主義的な内容は禁止などという米軍の条件下、壕から古い教科書を探し、また焼け跡から資料を拾って、まずは国語と算数の教科書をつくったという。
こうして生まれたガリ版刷りの初等学校1年生用『ヨミカタ』の教科書は、「アヲイソラ ヒロイウミ」との一節から始まる。文字どおり何もかも「消滅」した沖縄の教員と子どもの前にあったのは、青い空と広い海だけであり、当時の人々の心象風景ともいえよう。
1948年に入ると本土からはじめて教科書70万冊が入荷し、ガリ版刷りの教科書もその使命を終えることになる。
ルーズベルトの死と第32軍のプロパガンダ
12日に米ルーズベルト大統領が死去したことと、これをうけて軍の国内外向けプロパガンダが行われたことは既に述べた通りだが、第32軍はこうした軍の方針に敏感に反応し、沖縄現地で米軍に向けてプロパガンダを行った。
第32軍はこの日、以下の宣伝ビラを通じ米軍にメッセージを伝えている。
この宣伝ビラは沖縄北部に進出した海兵隊に向けて撒布されたものであることから、沖縄北部の特務班が大本営の指示をうけ、北部地区で独自に海兵隊に向けて宣伝ビラを作成し、撒布したといわれている。
この時期、次のような宣伝ビラも撒布されたそうだ。
この宣伝ビラは沖縄中部で撒布されたと見られている。沖縄北部で撒布されたものとは米軍の被害についての数字、表現が若干異なっていることから、情報の入手元やビラの作成元も異なると考えられるが、どちらにせよ第32軍自身がそうした戦果や米軍の被害を事実と信じ込んでいたところに、第32軍側の壮大な錯誤があった。
第32軍が作成し撒布した宣伝ビラはこれ以外にもあるが、それについてはまたあらためて取り上げることになるだろう。
参考文献等
・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・川満彰「沖縄本島における米軍占領下初の学校「高江洲小学校」─米軍占領下初の学校設立の再考とその教員と子どもたち─」(『地域研究』第7号)
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版
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島袋で再開された「学校」 新垣といわれる先生が青空教室で子どもたちに授業をしている:沖縄県公文書館【写真番号06-09-2】(siggraph2016_colorizationでカラー化)