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【沖縄戦:1945年5月5日】「残存兵力と島民とをもって戦いを続ける」─総攻撃中止、持久戦へ 「敵第一線ハ黒人部隊並ニ支那人沖縄人ヲ以テ編成シ」─軍の沖縄住民「スパイ」視と蔑視

総攻撃続行と部隊の苦戦、壊滅

 第32軍牛島司令官による総攻撃続行の命令に基づき4日夜以降、各隊は攻撃の継続につとめたが、各隊の戦力を極度に低下しており、戦果はほとんどなかった。
 各隊の状況は次の通りであった。

右突進隊
 歩兵第89連隊による総攻撃部隊である右突進隊は、第一線各隊がほぼ全滅状態にあり、負傷者の収容など前線の事態収拾で手一杯であった。右突進隊の第二線隊であった深見大隊だけが使用可能兵力となったが、深見大隊も攻撃の準備はできておらず、小波津西側高地に侵入する米軍の防御にあたった。

中突進隊 
 歩兵第22連隊による総攻撃部隊である中突進隊は、出撃した第11中隊が壊滅し、もともとの守備陣地である幸地への米軍の攻撃も激しく、陣地に釘付けとなっていた。

左突進隊 
 歩兵第32連隊による総攻撃部隊である左突進隊の左第一線隊である満尾大隊は、4日夜より支援射撃の掩護下に130高地に突撃し、この日未明までに同高地南半部を占領したが、夜明けとともに米軍の集中砲火をうけて壊滅した。
 左突進隊の右第一線隊である伊東大隊は4日夜、米軍陣地を突破した上で約2500メートルを挺進して棚原北側高地を占領した。伊東大隊については別に述べる。
 左突進隊の独立第26大隊(豊福大隊)は4日夜、全員斬込隊となり前田南東高地を攻撃したが、多大の損害をうけ攻撃は失敗した。

左側支隊 
 左側支隊は経塚地区にあり、前田集落付近の米軍と交戦したが、進出することはなかった。

戦車第27連隊 
 戦車第27連隊は4日夜、歩兵中隊を第一線とし、宜野湾街道東側から前田南側の130高地東側を攻撃させ、戦車中隊を協力させた。第一線の歩兵中隊は夜明け頃には死傷続出し、戦車の損害も生じ、攻撃はとん挫した。連隊長は発煙を実施し各隊に後退を命じた。戦車連隊の残存戦車は中戦車6両という状況だった。

前田高地、第二防衛線左翼 
 前田高地南斜面および前田洞窟の守備隊は、この日米軍の包囲攻撃をうけ、部隊の大部分が洞窟内に閉じ込められる状態となった。
 安波茶南側、経塚北側、内間北側地区では終日激戦となったが、守備隊は陣地を保持した。

独立混成第44旅団 
 総攻撃への投入が企図された独立混成第44旅団はこの日明け方より攻撃参加の準備を開始していたが、総攻撃の戦況が不調であるため、そのまま待機となった。

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前線に向かって進むC戦車中隊群 45年5月5日撮影:沖縄県公文書館【写真番号91-38-2】

伊東大隊の動向

 左突進隊の右第一線隊である伊東大隊は、146高地北方の120高地の西方低地沿いに前進し、部隊を散兵とせず縦長・穿貫とし米軍砲弾下を匍匐前進で棚原高地に向けてひたすら突進し、棚原高地(154.9高地)を占領した。突進時の米軍の攻撃に対しては、一個分隊程度の排撃部隊が応戦し、本隊はとにかく突進を続けたという。

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伊東大隊の攻撃前進経過要図:戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』

 同高地占領後、大瀧少尉の指揮する斬込隊は棚原北側の米軍集積所に斬込みを実施した。棚原地区への日本軍の進入を知った米軍は、迫撃砲で攻撃をしてきたため、伊東大隊長は棚原地区に円陣で防禦態勢をとって周囲からの攻撃に備えた。
 しかし暗号係が全員死傷したため、大隊はやむをえず暗号化せずそのまま連隊本部に「大隊は本五日四時棚原一四五・九高地を占領せり」と棚原占領を報告したところ、連隊本部から「暗号報告の理由を知らせ。爾後の前進はしばらく待て」との返電があり、伊東大隊はその場で待機となった。そのうちに米軍からの反撃がおこなわれ、戦車による射撃などもあったが、伊東大隊は米軍と接近戦を展開し、多大な犠牲者を出しながら同高地を確保し続けた。夜に入ると米軍の攻撃は緩やかになったという。
 一方、第32軍はこの日夜に総攻撃を中止したが伊東大隊には連絡が届かず、翌6日の朝にも米軍の攻撃をうけ、伊東大隊は孤立無援で防戦を続けた。
 6日正午過ぎにようやく連隊本部から「ミネ北側に転進すべし」との撤退命令が届いた。伊東大隊長は「ミネ北側」の場所が不明確であり、多数の重傷者がいるなかでの退却の困難を考え苦慮するなか、ミネ北側を石嶺北側と推定し、隷下各隊に転進命令を発した。
 伊東大隊は7日0時過ぎ南方突破の態勢を整え後退を開始したが、すでに大隊の損害約250名、残存者約300名という状態となり、第2中隊にいたっては上等兵以下4名生存といった悲惨な状態であった。なお、この撤退にあたり、重傷者には手榴弾を与え、自決できるよう「処置」をしたといわれる。

 五日の夜が明けてから、間もなく一大ニュースがはいった。第三十二連隊長北郷大佐の報告によると、部下伊東大隊が棚原高地占領の火光信号らしきものを揚げたというのである。沈鬱な空気に滅入っていた軍司令部洞窟は、急に生気が蘇がえった。軍首脳部の努力は、伊東大隊の戦果確認に集中した。第二十四師団に対し、速やかに状況を明らかにするよう指令が出されたのはもちろんである。ところが昼間は敵の独り舞台で、わが軍相互の通信連絡は意の如くならぬ。北郷連隊長と、伊東大隊長との間の連絡は、全然途絶えているらしい。師団にいかに督促しても、火花信号らしいものが揚がったという最初の報告遺骸に確たる返事がない。
 第一線大隊が戦果を揚げた際には、機を失せず連隊長が予備隊を増加して戦果の拡張を図り、ついで、師団長が、師団予備を投入し一層大きく、戦勢を有利に導くのが、戦場指揮の常套である。五日の午後になっても、第二十四師団にこうした動きは見られず、伊東大隊の奮戦はなかば夢物語的印象に止まった。

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

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日本兵の遺体 45年5月5日撮影:沖縄県公文書館【写真番号111-20-4】

総攻撃中止、戦略持久へ転換

 総攻撃の続行を命じた牛島司令官だが、司令部に届く戦況報告は不利なものが多く、伊東大隊の棚原占領の報告もあったが通信も不十分で詳細不明であることから、牛島司令官はこの日18時、総攻撃を中止し戦略持久への転移を決し、各隊に原態勢復帰を命じた。
 軍司令部はこの日夜、各方面に次のように総攻撃中止について電報した。

 球参電第二七八号(五日二〇四五発)
 軍ハ四日夜攻撃続行、五日朝迄ニ更ニ一部ヲ以テ棚原北側一五四・九高地ニ進出セルモ同戦力ノ損耗甚シク 現戦力ヲ以テハ所期攻勢目的ノ達成至難トナレルヲ以テ五日一八〇〇攻撃中止 旧陣地帯ニヨリ敵ニ最後ノ出血ヲ強要スルニ決ス 各方面ノ絶大ナル御協力ヘ誠ニ申訳ナク遺憾ニ堪ヘス

(戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』)

 軍司令部は、総攻撃中止による兵力の現状を次のように報じた。

第六十二師団 四分の一(歩兵六分の一)
第二十四師団 五分の三(歩兵五分の二)
独立混成第四十四旅団(四コ大隊) 五分の四
軍砲兵隊 二分の一(弾薬三基数)

(同上)

 軍の攻撃中止命令により、各隊は戦線を整理し、防禦態勢に移行した。
 歩兵第89連隊は第2大隊をもって連隊全正面の防衛を担当させ、第1・第3大隊を運玉森南西側地区に撤退させた。両大隊で健在の者は各中隊あたり10名前後で、将校に至っては数名に過ぎなかった。軍および師団から要員の補充をうけ、10日ごろになりようやく両大隊は再編成された。
 歩兵第22連隊は、第62師団への配属を解かれた第3大隊がこの日明け方ごろ連隊に復帰したので、第1大隊と配備を交代した。
 歩兵第32連隊は第1大隊との無線連絡が途切れ、第3大隊や独立歩兵第26大隊との連絡も十分でなく、連隊本部は隷下の大隊の掌握に苦心するような状況だった。
 軍司令官の総攻撃の中止の決断と司令部内の雰囲気について、八原高級参謀は後に次のように回想している。

 「八原大佐。貴官の予言通り、攻撃は失敗した。貴官の判断は正しい。開戦以来、貴官の手腕を掣肘し続けたので、さぞかしやりにくかったろう。予は攻撃中止に決した。濫りに玉砕することは予の本意ではない。予が命を受けて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣、参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の崖、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である。今後は、一切を貴官に委せる。予の方針に従い、思う存分自由にやってくれ」
 軍の戦力尽きんとする今日、司令官の言は何事ぞ! すでに手遅れである。憤怒の情さらに新たなるものがあったが、真情を吐露して訥々と語られる将軍の素直な人格に打たれ、ともに軍の運命を悲しむ気持ちに変わった。
  [略]
 それにも増して気の毒なのは参謀長である。軍司令官と私の問答は、つつ抜けに参謀長の耳にもはいっているはずだ。参謀長は攻勢に決するに当たり、私に対し一緒に死のうと申された。長将軍はこの攻勢に、死を賭けておられたのだ。攻撃予測の当否は別として、心中同情に耐えぬものがある。しかも軍司令官は、今後のことは、一切私に委すと断言されたのである。この後参謀長は冗談とも、まじめともつかぬ口調で、「八原! 俺の切腹の時機はまだ来ないか?」と申されるようになった。攻勢失敗の責任を感じ、戦いの将来に希望を失われた参謀長の言葉と解した。

(上掲八原書)

 軍の総攻撃中止と戦力が極度に低下したことにより、沖縄戦の敗北は事実上決定したが、八原高級参謀の回想によると、牛島司令官はこれ以降、沖縄住民を兵力として使用し、沖縄島の南の端まで追い詰められても持久戦を継続すると決意したのである。事実、沖縄戦はその通りに進行する。住民を巻き込んだ沖縄での死闘が終わることはなかった。
 特に、この総攻撃では、浦添や西原の村々に留まっていた女性や高齢者、子どもが多数戦闘に巻き込まれ死傷している。軍による食糧強奪や壕からの追い出しも発生しており、戦場に放り出された住民が犠牲となった。特に浦添ではそれまでの防衛線における攻防もあり、浦添村安波茶で157人(当時の字の人口の約75%)、宮城で309人(同70%)、前田551人(同60%)、仲間316人(同62%)が犠牲になるなど、住民の過半数が犠牲になった字が多くある。

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戦線を離れる第1海兵連隊の兵士 疲れきっているのか地面に寝転んでいる 米軍の疲弊、損害もまた極度のものがあった 45年5月撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-03-1】

軍の沖縄住民「スパイ」視と蔑視

 軍司令部はこの日、長参謀長名で「天ノ厳戸戦闘司令所取締ニ関スル規定」を定め、45年4月9日に続いて再度「軍人軍属ヲ問ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ(沖縄語デ談話シアルモノハ間諜ト見做シ処分ス)」と規定する。
 軍による住民「スパイ」視(以降、煩を避けカッコをはずす)や、スパイとされ軍に殺害・暴行された住民の事例や証言はこれまでも紹介してきたし、特に沖縄の言葉で住民がスパイ視された事例も紹介してきたが、あらためてこの規定から第32軍司令部内部における住民スパイ視の深刻さを知ることができる。
 第32軍司令部内で女性が女スパイとして捕えられ、竹槍で刺突される事件があったことは触れたが、その際の女スパイの直接の「容疑」は、懐中電灯で敵に合図を送っていたという不審信号事案であった。
 不審信号については、軍はこれまでも警戒をつづけていた。例えば、第32軍が沖縄に駐屯した年の44年には次のような軍の会報が残っている。

 第七九号 石兵団会報
       十月二十六日 一六〇〇 浦添国民学校
  [略]
9 怪火信号頻発シアルヲ以テ各隊注意ノコト演習等ニ信号弾ヲ使用スル場合ハ予メ時刻場所等ヲ軍ニ報告ノコト
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 軍は従前より不審信号を強く警戒していたことがわかるが、実際は不審信号のほとんどは、日本軍の軍用機の灯火や軍の車両の灯火を不審信号と見間違ったものであった。それでも不審信号をもとに住民をスパイとして処刑するまでに至ってしまう。軍の根深い住民スパイ視が理解できる。
 その他にも、軍の戦闘経過報告には「米軍の第一線部隊は黒人部隊および中国人や沖縄人で編成されている」といった多分に人種差別や民族差別、あるいは蔑視偏見に基づく情報がもたらされている。

歩兵第八十九連隊第五中隊陣中日誌 戦斗経過報告 自四月十三日至四月十四日
  [略]
三、参考事項
  敵第一線ハ黒人部隊並ニ支那人沖縄人(防衛隊員)ヲ以テ編成シ迫撃砲及機関銃ノ主体トシテ陣地ヲ構築シアリ 第三線ニハ砲兵陣地並ニ戦車幕舎ヲ認ム

(同上)

 米軍の第一線は黒人や中国人とともに沖縄住民で編成されているというのは、どう理解すべきだろうか。
 確かに投降した沖縄住民が他の沖縄住民に投降を呼びかけることもあったが、ここではそれ以上に積極的に防衛隊員の沖縄住民が米軍部隊に編成され、戦闘に参加していると記されている。沖縄住民は結局米軍と通じているのだという軍のスパイ視が読み取れるし、当時差別の対象であった黒人やアジア人と沖縄住民を同一視する軍の沖縄住民への差別、蔑視も読み取れる。
 ちなみに沖縄戦では後方部隊を中心に一定数の黒人兵士がいたことは事実であるが、第32軍は「前線の黒人部隊」という対米プロパガンダのビラを数百部から一千部単位で印刷し米軍に向けて撒布していた。おそらく「黒人部隊」が差別的に過酷な前線の任務に就かされていると考え、人種差別を訴え、米軍部隊内部を離間させようとしたと考えられる。こうした黒人兵士については新聞でも報じられることになるが、これが第32軍プロパガンダと軌を一にするものであることは間違いないだろう。

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大隊と中隊の指揮官らに那覇へ向かう際の最新の指示を出す第4海兵連隊指揮官のシャプリー大佐 45年5月5日撮影:沖縄県公文書館【写真番号99-31-4】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』(紫峰出版)

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日本軍機の攻撃を受けた米軍艦サンガモンの甲板 45年5月5日撮影:沖縄県公文書館【写真番号80GK-6316】