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【沖縄戦:1945年6月24日】宮古島の沖縄戦─第32軍壊滅後も続いた宮古諸島への空襲と、沖縄戦降伏調印後も利用され続けた日本軍「慰安所」

激化した宮古、八重山への空襲

 4月1日以降、米軍が沖縄島に上陸し激しい地上戦が戦われたが、宮古、八重山諸島(先島諸島)では、連日のように米軍や英軍による激しい空襲がおこなわれた。また時に洋上の軍艦が艦砲射撃をしてくることもあったという。
 宮古、八重山への空襲は、沖縄洋上に展開する米英の空母を発進した艦載機がおこなったが、地上部隊が沖縄各地の飛行場を制圧し、使用可能なように修復すると、沖縄島から発進した航空部隊が宮古、八重山を空襲することになる(沖縄島を発進した航空部隊が九州を空襲したことは既に述べた通りである)。
 沖縄島から発進した航空部隊が宮古、八重山を空襲したのは5月18日が最初であり、5月末から6月初頭にかけて一時期衰えるが、第32軍が壊滅した6月23日以降再び活発化する。沖縄島の日本軍陣地を攻撃するための航空作戦に一定の目途がたち、一方で宮古、八重山の日本軍部隊を牽制し釘付けにする必要があったためと思われる。
 23日は海兵第312戦隊と同第322戦隊の24機のコルセアが、アベンジャー17機と護衛の同第323戦隊のコルセア12機とともに石垣島を襲った。
 そして、この日、米陸軍航空軍の第318群団の第548夜間戦闘機戦隊のP61一機が宮古島の平良飛行場に1000ポンド爆弾二発を投下した。また夜明けとともに第441戦隊と第224戦隊のコルセア39機が平良飛行場を襲った。
 宮古に来襲した米英機は5月中で延べ2000機あまり、6月中も延べ2000機あまり、7月に入って散発的とはなるが、8月15日のポツダム宣言受託発表まで空襲や偵察のための航空部隊の襲来は絶え間なくつづいた。
 沖縄県史には城辺国民学校長であった下地かおる氏の日記が収録されているが、45年2月ごろより「敵機襲来」「空襲警報」の言葉が頻出し、特に4月1日以降は連日のように空襲にさらされている状況が記されている。また職業上、「御真影防空壕当番」とか「御真影奉遷」といった文言も散見され、空襲をはじめとする戦況悪化による「御真影」の管理、防護について苦労されていた様子が見てとれる。
 また激しい空襲が断続的に続くため、終日防空壕内で生活したという住民の話や、墓地を整理して墓内で暮らしたという証言もある。特に飛行場などは集中的に空襲されたが、夜になると現地召集の警備隊や防衛隊が総動員され、滑走路の爆撃痕の修復がおこなわれた。民家の石垣までも崩して修復したともいわれる。

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先島洋上の英国艦隊護衛空母に搭載されている英艦載機 これらが宮古・八重山諸島を連日のように空襲した 撮影月日不明:沖縄県公文書館【写真番号106-37-3】

宮古諸島の苦境

 沖縄戦時、宮古諸島には第28師団および独立混成第59旅団と同第60旅団が配備され、海軍宮古島警備隊など海軍部隊もあわせると約3万人もの大兵力が展開していた。また上述の空襲や米英軍の沖縄洋上展開により、海上補給が困難になったこともあり、島の食糧事情は悪化し、「犬、猫、鳥、みな喰いつくし熱帯魚に極限の命つなぎたる島」「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸焼きし宮古よ八月は地獄」とのちに兵士にうたわれたほど苦しいものがった。
 こうした宮古の苦境は、日本軍の通信を傍受していた米軍側にも記録されている。米軍は5月21日の海軍宮古島警備隊が在台湾の海軍部隊に発信した通信を傍受、解読し、その内容を配信されているが、そこには次のようにある。

4.南部琉球ー宮古島から弾薬及び糧秣報告
5月21日、宮古島警備隊(海軍)は、以下にあげる「20日現在量」を電報にて報告した。
「(1)弾薬(火砲毎)
 120ミリ高射砲実包 18
 25ミリ機関砲実包 158
 13ミリ機関砲実包 396
 我々の技能は向上しているものの、戦果は拡大していない。それは極度に弾薬を節約する必要があるためである。而して航空輸送にて喫緊に、機関砲弾薬を補給するよう要請する。
 (3)糧秣 2632人分(海軍部隊推計)
 主食 108日分
 副食 128日分
本島での陸海軍合計は、3万3千人の多数に及び、現地自活の必要があるも、現地自活の限度を超える段階に到達している。そのため弾薬と糧秣を輸送することがぜひとも必要となっている(特に主食と食塩)」。

(保坂廣志『沖縄戦下の日米インテリジェンス』紫峰出版)

 こうして栄養事情が悪化すると人々の体力は衰え、風土病でもあるマラリアが猖獗をきわめた。軍人に限った数字だが、宮古での戦没将兵は陸軍関係で2419人、海軍関係150人、合計2569人となっているが、そのうちの九割は栄養失調とマラリアによる犠牲と見なされている。宮古諸島には軍医が120人も配備されていたが、食糧もなく医薬品もなければ、たとえ医者がいようとも何もできない。住民の状況はさらに惨憺たるものがあっただろう。
 同時に、見過ごせないのが軍人による盗難や略奪である。食糧はじめ物資の欠乏状態で生きていかねばならない軍人たちは、住民の食糧や物資の窃取、略奪に手を染めた。
 例えば宮古島の平良町の仲間弘雅さんの日誌の昭和20年9月の項には、

 九月十九日
部落全地区ニ農作物及盗難事件頻発ニ伴ヒ監視ヲ交代ニテナス
 九月二十一日
監視中碧、福永隊ノ兵隊ヲ東支部ト北支部ノ両支部ニヨリ其レゾレ引捕ヘテツキ出ス

(『沖縄県史』第9巻、および第10巻:内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】より)

とある。碧とは独立混成第59旅団の兵団文字符であり、同旅団の福永隊(独立歩兵第393大隊、大隊長福永侑少佐)の兵隊が盗みを働いたため、それぞれ軍に突き出したとある。東支部と北支部とは住民による防犯機関の区分などのことであろうか。
 この碧部隊により家屋を半ば破壊され、雨戸などを略奪されたという証言もあるが、いずれにせよ住民は食糧難やマラリアのみならず、軍人の無法や横暴の被害にもあったのである。

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宮古諸島における部隊配備要図 宮古島への米軍上陸は相当な確度で予想されており、飛行場や砲台はじめ様々な軍事拠点が設置された:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

宮古島の「慰安所」

 日本軍部隊が駐屯するところには「慰安所」が建設されるが、宮古島も例外ではない。これまで宮古島には11ヵ所の「慰安所」があったとされてきたが、最新の調査では17ヵ所の「慰安所」の存在が明らかとなった。いわゆる「朝鮮人軍夫」同様、「慰安婦」とされた女性の多くは虚偽の情報でだまされ、あるいは強制的に連行された朝鮮半島出身の女性たちであった。
 宮古島で歯科医師をしていた池村氏の証言によると、軍により医薬品を調達する役目を与えられ台湾に渡り、宮古島へ戻ろうとするときに、朝鮮半島出身の「慰安婦」53人が船に乗船したそうである。彼女たちには軍人が2名ついていたという。途中、米軍の攻撃により「慰安婦」たちが亡くなることもあったが、結局何人かの「慰安婦」が宮古島まで連れていかれ、そのまま軍に送られていったそうだ。
 日曜日などは腕に外出マークをつけた日本兵たちが「慰安所」に列をなしていたともいわれるが、驚くべきはその宮古島における「慰安所」が第32軍が壊滅した6月23日以降も、さらには日本政府がポツダム宣言を受託した8月15日以降も運営されていたということである。
 宮古島の慰安所について、戦時中に宮古島にいた住民の証言の一例を紹介したい。

 野原岳の下に「スナガワ」という所があった。すぐ隣に、慰安所があった。建物はそれらしく綺麗にしていたので、目立った。[略]とにかく、私が見たのは城辺の「サズガー」にあった慰安所だった。
 それ(慰安所)を見たときにはショックを受けた。兵隊があんなに並んでいて。何でしょう。だーあっと並んでいて……(涙)。日曜日などは腕に外出許可のマークをつけた兵士たちが慰安所にゾロゾロとやってきて、列を作っていた。もう我慢できない。兵隊が並ぶのを見て、嫌なんでいうもんじゃないよ。[略]

(久貝吉子さんの証言:『戦場の宮古島と「慰安所」』なんよう文庫)

 ところで、最近発見された宮古島における終戦後の軍法会議の記録を見ると、宮古島の第28師団の衛生兵が軍の備品や食糧を横領、窃取し売却、その金で「慰安所」を利用したという軍法会議の記録があるが、この衛生兵の「慰安所」の利用履歴は45年8月中旬以降10月3日までとなっている。10月下旬には沖縄各地の「慰安婦」がコザに集められ、朝鮮に帰ったといわれているが、そのギリギリまで「慰安所」が運営され、日本兵が利用していたということがわかる。
 第32軍壊滅後も、ポツダム宣言受託後も、沖縄戦の正式な降伏調印後も、日本軍は「慰安所」を利用し、「慰安婦」たちは日本兵の相手をさせられていたのであった。恐るべき事実である。

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宮古島の上野野原に建立されたアリランの碑:宮古毎日新聞2014年5月24日

参考文献等

・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・林博史『沖縄からの本土爆撃 米軍出撃基地の誕生』(吉川弘文館)
・林博文「資料紹介 沖縄・宮古における日本軍慰安所」(『季刊戦争責任研究』第84号)
・ホンユンシン『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』(インパクト出版会)
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】:宮古編宮古

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地上の日本軍を攻撃する海兵隊航空部隊のコルセア機 撮影月日不明:沖縄県公文書館【写真番号73-04-1】