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【沖縄戦:1945年4月2日】「結局敵ニ占領セラレ本土来寇ハ必至」─軍中央の沖縄戦認識 「地方人ニ対シ必ズ捕ヘ訊問」─軍の住民「スパイ」視

米軍の侵攻つづく

 沖縄南部湊川方面においては、6時ごろ米艦艇が湊川沖に出現し、6時30分ごろから艦砲射撃を開始した。7時30分ごろ輸送船および上陸用舟艇十数隻が発煙下に湊川海岸に接近したが、9時15分には反転して沖合に遠ざかった。また米艦艇の主力は、浦添、那覇方面にも艦砲射撃を行った。
 昨日米軍が上陸した嘉手納沖では、兵員の上陸や兵器や資材の陸揚げが続いた。さらに米軍は、越来、中城、北谷、宜野湾の各村方面に侵攻、東には喜舎場、泡瀬まで迫り、沖縄島を南北に分断する寸前まで進出した。

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沖縄の平野(畑だろうか)を行軍する海兵隊員 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-19-1】

 主に読谷村の北飛行場周辺で上陸する米軍を迎え撃つかたちとなった特設第1連隊(青柳時香連隊長)だが、実際はほとんど米軍に対し有効な戦闘ができず、この日には同連隊の第2大隊長が戦死するなど壊滅状態となった。
 第32軍牛島司令官は、この日をもって同連隊に沖縄北部への撤退を命じ、国頭支隊のもとで遊撃戦を展開するよう指示する。なお同連隊との交信は、この日以降途絶える。
 しかし、どのような経緯かは不明ながら、青柳連隊長は、部隊の主力を北部転進ではなく南部の軍主力への合流を企図し、敵陣突破をはかるが、途中で米軍と遭遇し多大なる損害をうけ、南部転進は失敗した。
 また同連隊の第2大隊長は、第44飛行場大隊、第504特設警備工兵隊、県立農林学校生徒による農林鉄血勤皇隊を指揮し、御殿敷の北側高地を陣地としていたが、第504特設警備工兵隊がこの日夜、大隊長に連絡なく陣地を撤退してしまった。第2大隊長はやむをえず、自身の率いる第44飛行場大隊だけで戦闘することを決意し、農林隊に乾パンなどを配布し、解散を命じたという。
 一方で、農林隊の一部約20人は、既に「斬込隊」として尚謙隊長以下に率いられ青柳連隊長のもとへ向かっていた。この部隊は、最後まで転戦することになり、最後は沖縄北部の東村で壊滅することになるが、これについてはまたあらためて触れる。
 南下をはじめる米軍を迎え撃つ独立歩兵第12大隊(賀谷與吉大隊長、賀谷支隊)は、少数部隊ながら精鋭をもって米軍に抵抗し、大きな被害を出しつつも米軍に一定の損害を与えていた。この日朝より賀谷支隊は、米軍の戦車を伴う攻撃をうけ、午後からの戦闘は特に苛烈になったといわれる。
 賀谷支隊の属する第62師団の歩兵第63旅団長(中島徳太郎旅団長)は、賀谷支隊を支援するため軍砲兵隊による砲撃を上申したが、牛島司令官は砲兵隊の配置が米軍に悟られることを警戒し、これを認めなかった。
 また、この日、沖縄北部では大宜見国民学校の校舎が空襲で全焼した。その他、軍司令官は、翌日3日以降、遊撃隊に北・中飛行場への秘密遊撃戦を実施するよう国頭支隊に命令した。結局、この命令は北・中飛行場の比較的近くに配備されていた第4遊撃隊(第2護郷隊、岩波壽隊長)には届かなかったが、このように沖縄北部でも戦闘がいよいよ地上戦が始まろうとしていた。
 なおサンフランシスコNBCはこの日、沖縄へ上陸した米軍は第10軍の第24軍団および第3海兵遠征部隊であると放送した。

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左からレーン3等軍曹、尋問される日本兵、通訳のマーフィー3等軍曹 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館

昭和天皇の「御下問」と第32軍への不満

 梅津参謀総長はこの日、戦況上奏において昭和天皇より沖縄作戦について「御下問」をうけ、「軍司令官のおこなう攻勢もありえる」旨をこたえた。宮崎第1部長のこの日の日記には、上奏について次にように記されている。

 四月二日
  [略]
上奏〈陛下ノ御言葉〉
  [略]
一、沖縄ノ敵上陸ニ対シ防備ハナキヤ 敵ノ上陸ヲ許シタルハ敵輸送船ヲ沈メ得サリシニヨラサルヤ
右ニ対シ「相当ヤツテハ居ル、相当ヤッテモ或程度カ上ルコトハアリ得ル 軍司令官ノ攻勢テ出ルコトモ考ヘラル 慶良間ノ基地ニ対シテハヤリニクイコトモアル 只今ノ処悲観的ニ見ル要モナイ、将来之ヲ沈メレハ敵ハコマル 其後ノ状況ノ進展ハ状況ニ依ル 目下ハ陸海共張リ切ッテヰル」
若干予想程ニハ行カヌ」ノ御感想
  [略]

(軍事史学会編『大本営陸軍作戦部長 宮崎周一中将日誌』錦正社)

 大本営陸軍部第2課(天野正一課長)は、北、中飛行場があまりにも簡単に制圧されたことに衝撃をうけ、第32軍がはなはだ消極的で、自己生存主義をとるのではないかと懸念を抱き、敵の出血強要、飛行場奪回を要望する電報を起案した。ただし大本営陸軍部宮崎周一第1部長は、戦闘がすでに始まっているなかで、それは不合理な干渉であるとして不同意を表明、発信しなかった(戦史叢書『大本営陸軍部』〈10〉では天野課長の電報の起案は3日の出来事となっており、若干異同が見られる)。
 いずれにせよ、少しずつ第32軍へのプレッシャーは高まっていっており、これが第32軍司令部内部のぎくしゃくしたものを生み、戦略持久からの攻勢移転(総攻撃)への作戦方針の変更につながっていくものと思われる。
 とはいえ、この日、大本営の作戦連絡において、沖縄戦の見通しについて小磯国昭首相に問われた宮崎第1部長は、「結局敵に占領せられ本土来寇は必至」とも回答している。この日の「機密戦争日誌」には次のように記されている。

昭和20年4月2日 月曜
  [略]
三、本日ノ作戦連絡ニ於テ
(イ)総理ヨリ琉球ノ戦況見透如何トノ質問アリ 之ニ対シ第一部長ヨリ結局敵ニ占領セラレ本土来寇ハ必至ト応答ス
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍資料 沖縄戦6)

 沖縄戦ごく最初期の時点で、軍上層部は、明確に沖縄戦の敗北は必至と認識していたことが伺える。そこから第32軍への干渉のようなことは不同意という宮崎第1部長の態度は、ある種の諦めからきているものとも考えられる。

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負傷の治療のため海岸に後送された兵士 担架の上に米兵が乗っているのがわかる 米軍の損害も確実に増えていった 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館

軍の住民「スパイ」視について

 歩兵第89連隊第2中隊のこの日の陣中日誌には、軍が住民を「スパイ」視する文言が記されている。陣中日誌には「球情報」すなわち第32軍司令部から各隊に発せられた情報として、

四月二日 晴天
  [略]
三 球情報(一八一七受)
  [略]
中頭地区一帯ノ敵手ニ至ルヲ以テ住民ヲ使役シ偵諜セシムベキハ明瞭ナルベシ故ニ爾今陣地附近ニ至ル地方人ニ対シ兵ヲシテ不用意ニ対処セシメザルト共ニ必ズ捕ヘ訊問シ我陣地配備兵力等暴露セシメザル等ノ注意肝要ナリ
特ニ初年兵ニ対スル面会ハ之ヲ厳禁ス

(第24師団歩兵第89連隊第2中隊「陣中日誌」:防衛研究所戦史研究センター所蔵沖台 沖縄 69)

とあり、米軍は、占領地帯の住民を使って偵察・諜報活動を行うことは明瞭なので、「地方人」すなわち軍の陣地に近寄ってくる沖縄住民に対して、兵士に不用意に対処させてはならず、必ず捕まえて訊問しろとある。初年兵に対する面会というのは、初年兵は軍隊経験が浅く防諜意識が希薄であるとともに、そもそも初年兵は現地入隊兵が多い、つまり沖縄出身者である場合があるので、何をするかわからないということであろう。軍による住民「スパイ」視がはっきり看取されるとともに、これらが後に軍による住民迫害、虐殺につながっていくことになる。

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海兵隊員に投降し、保護される住民 隊員は危害をくわえないということを住民に理解してもらうのに苦労したという 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号76-01-1】

チビチリガマの悲劇

 多くの住民が避難していた読谷村のチビチリガマではこの日、80人もの住民の強制集団死が起きる。ガマでは前日、米軍上陸によって住民が布団に火をつけ強制集団死をはかったが、消し止められていた。この日に至ってガマは極度の緊張状態にあり、米兵が再び姿を見せたことなどを契機に、多くの住民が強制集団死で犠牲となった。
 チビチリガマでの強制集団死を主導したのは、中国戦線の経験のある元日本兵と元従軍看護婦の住民といわれている。彼らは中国戦線での日本軍の残虐行為を見てきたため、自分たちも同じことをやられると住民を煽り、強制集団死を主導した。
 ただし、ガマに避難していた全ての住民が犠牲になったわけではなく、元日本兵たちも「出て行きたい人は出て行きなさい」などといったという。これいよりガマから逃げ出し米軍に保護された住民も多くいる。
 また強制集団死を主導した住民のみに全ての責任があり、チビチリガマの悲劇がその住民の個人的な過失ということではない。軍の共生共死の思想はじめ、背景にあるものを考えていく必要があるだろう。

チビチリガマでの「集団自決」
 チビチリガマは、読谷村字波平の集落から西へ五〇〇メートルほど行った所にあり、深さ一〇メートルほどのV字型をした谷の底にある。集落内に源をもつ湧水が流れ出て小さな川をなし、それが流れ込む所に位置し、川が尻切れる所といった意味から「チビチリ」(尻切れ)という名が付いたと考えられている。米軍が上陸した海岸からは八〇〇メートルほど内陸である。近くには、小字名「犬桑江原(イングェーバル)」にちなんだ「イングェーガマ」もあったが、そこにも三〇人ほどが避難していたが、全員救出された。
 さてチビチリガマの悲劇は、一九四五年四月二日に起きた。
 生か死か―騒然とする中、一人の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けた。
 中国戦線での経験を持つその男は、日本軍が中国人を虐殺したのと同様に、今度は自分たちが米軍に殺されると思い込んで「決死」の覚悟だったようだ。
 当然のように壕内は混乱した。「自決」を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなったが、結局多くの犠牲者を出した。燃え広がる炎と充満した煙によって人々は死に追いやられた。
 「集団自決」に至るまでには幾つかの伏線があった。
 四月一日、米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出た。
 上陸直後のため敵の人数もそう多くはないと思い込んだのが間違いだった。ガマの上には戦車と米兵が集結、竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。この衝突で二人が重症を負い、その後死亡した。避難民の恐怖心はさらに高まった。
 米軍の上陸を目のあたりにしたその日、南洋(サイパン)帰りの二人が初めて「自決」を口にした。焼死や窒息死についてサイパンでの事例を挙げ着物や毛布などに火を付けようとした。
 それを見た避難民たちの間では「自決」の賛否について、両派に分かれて激しく対立し、口論が湧き起こった。
 二人の男は怒りに狂って火を付けた。放っておけば犠牲者はもっと増えたに違いない。その時、四人の女性が反発し、火を消し止めた。四人には幼い子がおり、生命の大切さを身をもって知っていたからだ。結局、その日は大事には至らなかったが、「自決派」と「反自決派」のいさかいはその後も続いた。
 前日の突撃で米軍の戦力の強さを思い知らされた避難民は一睡も出来ないまま二日を迎えた。
 前日に無血上陸を果たした米兵が再度ガマに入ってきて「デテキナサイ、コロシマセン」と降伏を呼び掛け、食べ物を置いていった。
 その間にもいくつかの悲劇は起きていた。十八歳の少女が母の手にかかり死亡したり、看護婦の知花※※らのように毒薬を注射して「自決」した人々もいた。「天皇陛下バンザイ」と叫んで死んだのは一四、五人ほどだったという。
 横たわる死体。そこへ再び入ってきた米兵…。ガマの中の混乱は極限に達していた。そんな中ひもじさの余り米兵の持ってきた食べ物を口にする者もいたが、毒が入っているから絶対食べるなと頑として応じない者もおり、避難民は生か死かの選択が迫られていた。
 煙で苦しんで死ぬより、アメリカーに撃たれて楽に死のうとガマを出た人もいた。しかし、大半はガマでの「自決」を覚悟していたようだ。
 そして毛布などについに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。奥にいた人たちは死を覚悟して、「自決」していった。煙に包まれる中、「天皇陛下バンザイ」を叫んでのことだった。そこに見られたのは地獄絵図さながらの惨状だった。
 避難民約一四〇人のうち八三人が「集団自決」という形で亡くなるというチビチリガマでの一大惨事だが、真相が明らかになったのは戦後三十八年たってからであった。全犠牲者の約六割が十八歳以下の子どもたちであったことも改めて判明した。波平の人々が、知っていても語ることなく、口を閉ざしたのは、チビチリガマの遺族の人々自らが語り出すまでは、黙っておこうといった、地域の人々の思いを反映したものであったと言われる。

(『読谷村史』戦時記録 上巻)

チビチリガマの悲劇について証言する大湾千代さん:NHK戦争証言アーカイブス

米軍戦史から

 天気は快晴、反撃もたいしてないとあって、米軍は四月の二日と三日の両日、破竹の勢いで進撃することができた。二日の午後二時までに、第七師団の第一七連隊は東部海岸にある中城湾一帯を見渡せる高地を確保し、さらに湾一帯の海岸に偵察隊を派遣した。この部隊の進撃があまりに速すぎたため、後続部隊は追いつかず、遥か後方に残されるほどだった。
 同日、第三二歩兵連隊は、戦車隊でコザ南部の強力な日本軍陣地を掃討してから、午後おそく進路を南へとった。一方、北部のほうでは、第一海兵師団がけわしい山岳地帯や補給問題に悩まされたため、本隊から五千五百メートルの距離ができてしまったが、これは第一八歩兵連隊が埋め合わせた。
 いまや沖縄は、二つに切断された。日本軍は、北部と南部の二つに分轄されたのである。
 第九六師団は、四月二日の朝、勢頭付近の田舎で進撃がおくれていた。ここには密林地帯があり、洞窟や塹壕が多く、また戦車の通れると思われる道には、地雷や対戦車壕が設けられていたからだ。夕方までに、第三八一歩兵連隊は島袋を突破したが、桃原付近で日本軍にあい、前進をばまれてしまった。第三八三歩兵連隊も桃原地区で頑強な日本軍に遭遇し、厳しい応戦をくりかえし、空軍や砲兵陣、さらに戦車隊の支援を得て、ついに桃原南部の丘陵地帯を取り、普天間地区の北東部付近まで進撃することができたのである。その夜、米軍の戦線は、伊佐浜北方から、伊佐──普天間道路を通って普天間の北端にまでのびた。
  [略]
 ガソリン・タンク場建設用の資材が入ったのは四月も遅くなってからだった。読谷飛行場では滑走路の幅九メートル、長さ九百メートルがきれいに片づけられ、砲弾の穴も上陸のその日にすぐ埋められた。夕方までには嘉手納飛行場も不時着用に使用できるほどになった。
 四月二日、CVE型船やLSTに積載されて、十九機の急降下爆撃機が運ばれ、翌三日からさっそく作戦に従事し、さらにその翌日から、両飛行場の使用は本格的になりはじめたのである。

(米国陸軍省編『沖縄 日米最後の戦闘』光人社NF文庫)
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読谷飛行場と破壊された日本軍機 中央を米軍のジープが走行している:沖縄県公文書館【写真番号94-09-4】

新聞報道より

 この日の沖縄新報社説は、米軍沖縄上陸を次のように論じた。

社説「沖縄決戦」
 驕敵遂に沖縄本島に上陸す。遺憾の念、痛憤の情ここに極まる。敵、南西諸島に来寇して以来、皇軍の力戦奮闘は、能く敵艦隊に大痛撃を加へ、戦線いささか急調を殺がれたるやに見受けられたるも、熾烈なるその戦意、厖大なるその戦力は、一応作戦企図を成就せしめた。しかれども初動の傾向は必ずしも、戦闘の完勝を意味するものとは限らぬ。敵襲を迎へ撃つ我方の体制、準備、作戦にして万遺漏なきを期し得ば、食ひ止めることもできれば、挫折せしむることもまた可能である。周到、冷静にしてしかも強烈、果敢なる統帥、用兵をもってせば、再び水際に追ひ落すことすら期待し得るであらう。
  [略]

(『宜野湾市』第6巻資料編5 新聞集成Ⅱ〔戦前期〕)

 また大阪朝日新聞はこの日、米軍沖縄上陸を次のように報じた。

本土決戦の第一歩、驕敵断じて覆滅せよ
  [略]
敵のこの上陸作戦は直接にはわが本土と南方の要塞台湾との遮断、さらに一歩を進めて本土から中南支方面への連絡路ひいては南方資源帯への交通線を遮断せんとするものであり、また朝鮮海峡による大陸との交通線を窺ふものでもある、しかしながら敵の真意はあくまでわが本土上陸にあり、沖縄本島への上陸はその足懸りとして欠くべからざるものであるからこの島をめぐる戦こそ本土決戦の第一歩を踏み出すものなのである、わが陸海軍部隊はいまや全軍蹶起して身をもって特攻精神を具現し航空部隊も水上部隊も敵に体当りの血戦を展開しその意気は正に壮烈である、敵の誇る物量に対してわが方は作戦上の優位を確保しているのであるからここにすべての戦力を傾注し敵を覆滅せねばならぬ

(同上)
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沖縄島にて米軍に保護されたと見られる住民たち 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号110-32-3】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『読谷村史』戦時記録 上巻
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦

トップ画像

読谷の喜納集落へ向かって歩く海兵隊員 沖縄特有の珊瑚礁の垣根が目につく 1945年4月2日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-15-3】(siggraph2016_colorizationでカラー化)