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口惜しい時代

 かつて思想とは、吾々の生活というものともっと親しいものであったように思う。なにも思想なぞという喧しい響きのする言葉で語るまでもないものとして、厳然とわれわれの内奥にあったものなのではあるまいか。生活信条といってもいい、あるいは虫と言っていいかもしれない。めいめいに己の生活に対する信、あるいは不信というものがあって、「それが当節いうところの思想なのだ」と他所から言われ、納得したり、あるいは怒ったりしたりしている、こういうものではなかったか。

 それは少なくとも、吾々がそこに己の人生観というものを僅かばかりであっても投影するに足る、そういうものであったということに他ならないのではないか。

 今日ではどうだ。そもそも思想なぞ死んだのだという者もあろうが、仮にそういうものがこの時代にも生きているのだとして、吾々がそれを見定めることの困難は、決してその思想の難解極まるところにあるのではない。無論、それがわれわれの人生というものと全然無関係のところに咲いた花であるが故ではあるまいかと私は思う。

 私には全体どこに座ってものを言っているのかがまるでわからぬ時がある。確かに声門を震わせ出た筈の言葉が、いつしかこの身体を囲ったスピイカアから出た音のように鼓膜を揺らす。笑談を言うのではない。なんとこの世界には、そういう言葉ばかりの増えたことか。

 思想というものがわれわれから随分と遠くに行ってしまったのはいつからだったかは知らぬが、結果この世を覆ったものとはなんだったか。

 思想はなにやら崇高な存在へと成り果てた。そうして、どうやらこの崇高な一神教は私の願いを聞いてはくれぬらしいのである。最大とか、多数とか、あるいは少数とか、そういう者を救うらしいのであるが、私にはよく分からぬままだ。

 故に私の思うことといえば、この崇高な一神教の変わりに、狐の置物が欲しいということであり、その狐のためになら毎日でも油揚を買ってやりたいというそのことだけである。

 このことを私は大変口惜しいと思っている。間違っているのでもなければ、違和感があるとかそういうことでもない。「思想」の正しさゆえに、あるいはあらゆる異論というものを拒絶するその完成されたるところがゆえに、私はただ口惜しいと漏らすより他に言葉を知らない。

 なんとも個人的な感慨なのであって、こんなことを表明してみたところでなんとも卑小極まるのであるが、語るべくをも語れぬ当節風よりは余程マシなことであると思っている。


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