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才能に憧れて

才能がある人達には自分の世界が見えているのだと思う。そういう方の話を聞いているうちに彼らから漂う宇宙のような広がりを感じる。あの人の頭の中ではどんな世界が広がっているんだろう可能であれば覗いてみたい。人が考えていることを直接スクリーンに写せて共有できればいいのに。でも見えないからこそ面白いのかもしれない。

「私にはこれしか無かった」そんな風に信じて生きられたらいいのにな。なるべく後悔せずに生きていきたい。生きるってことは面倒くさくて大変なことの積み重ねだと思う。全く同じ日なんて1日もないのに毎日同じように感じる。刺激が足りないんだと思う。

才能のある人が羨ましくて羨ましくて妬ましかった。曲を聞いたり絵を見たりオブジェを見るたびに、こんな風に自分の自分の世界を表現できたらどんなに気持ちがいいだろうと思った。なぜ私は自分の世界を表現できていないのだろう。自分の世界を表現できている職業についている人がとてつもなく私には輝いて見えた。

あの人みたいな才能が私にもあればいいのに。その人にしか見えない濃厚な世界でその人に変わって何かを作り出したい。特別な貴方になりたい。そんなことばかり考えていた。

自分に何か特別な才能があるはずだと盲目的に子供の頃から信じ続けていた。小学生の頃に不登校だったことで何もかもに劣等感を抱えていた私にはそれが希望だったのかも知れない。いつか有名になってクラスメイトを、今の頼りない自分を見返したいという気持ちが大きかったこともきっと関係している。

私の中で才能=成功という式ができていたのだと思う。早い話、人から認められたかった。

高校に入ってから始めた陶芸が楽しくて将来は陶芸家になろうと思った。先生にも認められていたと思う。でも展覧会に作品を出展したとき、作品は私を追い越して受賞した。当時は嬉しかった。でも賞を取ってからは楽しんで作品が作れなくなってしまった。

作品が賞を取れた時、嬉しさと共に本当にこの作品がこの賞をもらっていいのだろうかと思った。落選してしまった作品の悲しみの上に受賞した賞なのに喜んでいてもいいのだろうかと。陶芸の土と窯と釉薬、それと作品の作り方さえ分かれば誰でも作ることが出来るこの作品が賞をもらってもいいのかという疑問が私を苦しめた。

賞を受賞したことが私には足枷のように感じた。賞を取った作品の粗ばかりが目について、作品を制作する際にもっと力を尽くせばよかったと後悔ばかりしていた。その内に自分に対する期待やエゴが膨らんでいって、うまく作品を作らなければという気持ちが大きくなっていった。そんな気持ちで作品を制作していても楽しくなかった。

結局私は高校卒業後、大学へ進学してから陶芸と向き合うことができなくなってしまった。陶芸を始めて感じた作品を作る楽しさは何処かへ行ってしまった。私が求めていた才能とは一体なんだったのか。もしかしたら私が思う才能は何か食い違っていたのかも知れない。才能に完璧を求めていたのだと思う。

受賞したということで自分が特別なのだと勘違いしてしまった。私には才能があるのだと勘違いしてしまった。それからずっと私に才能があるのならば失敗なんて許されないという考えに囚われ続けた。その考えを続けていた為、自分の理想と現実の差が開き続ける。その差を埋めることができなくて苦しかったのだと思う。

これからは才能を探すのではなく、周りになんと言われようと自分が楽しいと感じることを探していきたい。あぁ生きていてよかったと思えるようなことと出逢いたい。それは案外近くにあるのかもしれない。

長々しい文章にお付き合いいただきありがとうございました。

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