トレンドについての雑鬱憤

 僕はトレンドとかいう言葉が大嫌いである。Twitterをいじくっていると、あれが目に入って甚だ具合が悪い。トレンド、日本語にすりゃ流行になるのだろうが、こちとらそんな流行など知らないよと言いたくなる。そういう態度を取ろうとすると「老害」ということになる。まことにめんどくさい。じゃあTwitterをやめればいいじゃないか。それが出来れば苦労しない。僕はトレンドが大嫌いなのと同時にTwitterを常に見てやまない、自己矛盾の塊みたいな人間なのです。
 このトレンドというものの一番嫌なところは、それを知らないあなたは遅れていますよ、というようなニュアンスが含まれているところである。本当は、そんなものは意図されていないかもしれない。しかし、リアルタイムで変動し、知ることをせかすあのトレンドの機能は、実際の意図は別としても、そのニュアンスがあるということを感じさせる。
 

 じゃあその知らないトレンドを知ろうと、クリックしたとする。そしたらどこそこのアカウントが荒れたとか、こういうことを始めたとかいう、本当にどうでもいいことだけである。どうでもいいことなら知りたくもない。プロゲーマーが失神したからどうかとか、そりゃその人にとっては大変だし、見ている人も不安だろうが、僕にしちゃ「そうですか」以上の感想がない。それはそのコミュニティの中だけで共有していればいいではないか。なんでこれっぽっちも知らず、これからも知ることのないであろう人が失神したどうこうをこちらが感知しなければいけないのか。この構造がクソ面白くないのである。
 

 流行とかそういう言葉は、本来は自然について向けられていたのではないかと思う。たとえは「流行り病」のような言葉。これは情報化社会以前の社会体制であっても重要なことで、流行を知ることにも意味がある。病というのは自然だし、それは知っておかないと対策のしようがない。どこの誰かさんの都合なんて関係なく、ヒトが死ぬ。それなら気にしておかなければならないではないか。だからTwitterのトレンドでもウィルスとか地震、台風は相応の意味があるのである。今ではニュースは見ないけど、トレンドは見るという人はたぶん大勢いるし、ニュースの代替物になっている部分は確実にある。
 

 しかし、そこにヒト由来の情報が入り込む。情報は意識を介して表現されるものだから、自然現象について扱おうが社会現象について扱おうが同じものだろうが、という意見もあろうがそこはひとまず置く。トレンドの扱う情報の性質が自然由来かヒト由来か、問題はそこだからである。
 ヒト由来の情報は社会の情報である。それは政治問題から、エンタメの問題まで多岐にわたる。どれも流れのない情報で、それ自体は止まっている。そのくせ取り扱う人間はさまざまだし常に変化するから、色んな印象を持って、対象の言葉を扱う。その総数が多くなって、トレンドに上がってくる。だから固定的な情報の数も、その分多い。扱う人間一人一人で、情報の性質が微細に変わってしまう。だから、めちゃくちゃ数が多くなる。
 

 自然の特性はある種の猥雑さで、葉っぱの色や形から、全く同じものは一つとしてない。しかし人間はそれを等しいものとして捉えようとするので、ある意味楽をしている。葉っぱがどんな形をしていようと葉っぱは葉っぱである。
 反対に猥雑さを抑えるのが人間の扱う情報の特性だが、現代ではその情報の数自体が多すぎて、立ち位置が逆転してしまっている。いちいちその情報に付き合うのがめんどくさいと思うのも当然ではないか。そのトレンドだか流行りとかいうやつに付き合ってたら、また次の流行りが瞬間的に生まれる。その流れについていくことをやめると「老害」と呼ばれることになる。
 

 僕は流れについていくことがめんどくさい。立ち止まるというか、たらたらと時間をかけて進むのが性にあっている。そうやって生きてきても未だに「老害」と呼ばれたこともないし、遅れてるとか言われたこともない。案外なんとかなっている。だからといってトレンドがムカつくことに変わりはないのだが。
 

 結論はこうなる。あんたはTwitter向いてないから早くやめろ。大げさに言えば、ネット自体向いてない。だからやめろ。そういわれたってそんな簡単にはやめられない。ずぶずぶとネットの沼に浸かっているから、やっぱりそこそこに付き合っていく以外にはないのである。

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