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【読書】日本純文学リベンジ その14 森鷗外『舞姫』

日本近代文学最大の難所

森鷗外の『舞姫』以上にトラウマを与える日本近代文学はあるだろうか。
これまでも長らく、いやこれからも日本国民に純文学のトラウマを与え続けるだろう。

そう、日本近代文学を嗜む人の最初でかつ最大の難所は『舞姫』なのである。

夏目漱石と双璧をなす文豪として名は上がるものの、森鷗外は正しい評価が得られてないのは、『舞姫』要因が大きいにちがいない。

重い重い腰を上げて、とうとうこの本を取り上げる日がやってきた。
最大のトラウマリベンジ、森鷗外『舞姫』チャレンジである。

人間諦めも大事

読みきるぞ!と心意気はあったのですが、ふとAmazonを眺めていると現代語訳が沢山あるではないですか。

よくよく考えてみれば、大学ではフランス語の原典を読みために、辞書と翻訳を両手に持っていました。
いや、そもそも社会人になってからは原典よりも名翻訳を探して、翻訳のみで分かった気になっていました。

そんなことで現代語訳、という最高の相棒を手に入れました。

すると、どうでしょう。
あんなに砂を噛むような文章だった文語がスラスラと頭に入っていきます。

頑なに文語ではないとダメと考えてた自分を悔いると共に、恥ずかしげもなく現代語訳を享受する自分は大人になったのだとしみじみおもいました。

『舞姫』はなぜ書かれたのか

『舞姫』のあらすじは、一言で言うと、
受動的な男が、海外で出会った恋人を捨てて上司に言われるままに、仕事をとって帰国する、という話です。

今風に表現すると、ゲスとかクズとか過激に非難されかねない内容ですが、鷗外はなぜこの作品を書いて、何を伝えたかったのか、を考え込んでしまいました。

エリスを捨てた豊太郎の振る舞いは、現代の人のみならず当時でも諸手を挙げて受け入れられるものでもなかったでしょう。

さらにはドイツへ洋行している主人公ともなれば、自ずと森鷗外自身がモデルと考えられても仕方ない、とも思います。
それでも、あえてこの物語を描いたというのは、彼自身で消化しきれない想いがあって、小説に向かわせたのかな、と想像が膨らみます。

エリスのモデルの存在と僕の希望的観測

今では女性のエリスのモデルを特定したり、ドイツ帰国後にもやりとりをしていた、というような記述も見受けられます。
※エリスのモデルの女性は森鷗外帰国と共に来日していますが、1ヶ月ほどで帰国したそうです。
そして森鷗外は帰国後すぐに家族に結婚を決められて、数年後に離婚しています。

希望的な観測として、森鷗外は『舞姫』を執筆することで、変わらない女性への想い、もしくは少なくともそうした自由恋愛を遮る日本社会を描きたかったのかな、と妄想していました。

受動的で帰国のために女性を捨てるというあまりカッコ良くはない主人公は、悔やんでいる自己の部分を表現したのではないでしょうか。
また他にも自分の陥った社会環境、状況を描こうとし、さらにはエリスの美しさ、を描きたかったのではないか、などと想像してしまいます。
(全く関連本を読んではいないので、定説とかあったのならすみません)

苦しみ悩んだ結果、小説というアウトプットになったと考えると、天才森鷗外に一歩近づいたように感じれます。
そして理解のない周囲に阻まれた大きな恋が存在したからこそ、文豪森鷗外が生まれた、と考えると
陳腐ではあるけど悪くない解釈のように思えてくるのでした。

今回は現代語訳の力を借りてリベンジ成功?なのかは分かりませんがとりあえず内容理解できたのでよかったと思います。

まだまだ山のような積読が存在しますが、まず第一歩を踏み出せたので、森鷗外にもまだまだ挑戦し続けたいと思います。

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