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【読書】日本純文学リベンジその16夏目漱石『それから』

『それから』の思い出

夏目漱石の好きな作品を聞かれたならば、どの作品を選ぶでしょうか。

僕は少し悩んで『それから』と答えると思います。
文学として、価値があるとか、完成度が高いとか、そういう客観的な尺度ではありません。

個人的な思い出が多いからです。

『それから』の出会いは、僕にとって夏目漱石との出会いと言っても過言でないかもしれません。

19歳の夏に初めてバックパックで海外旅行した時に、なぜかこの本しか持っていなくて、何度も繰り返し読みました。

クーラーのない、じめじめとした中央アジアの夜に、ほのかなオレンジ色の電球で読み耽った記憶が蘇ります。

いきなり脱線しますが、当時のバックパックした時は、そこで出会う日本人とコミュニケーションをとっていました。

そして旅先で自分の持っている本を持ち合って交換して、限られた資源=本をシェアしてました。
面白い文化だとおもいますが、そのときは、日経新聞に就職の決まっていた大学生と本を交換して夏目漱石を渡してしまったような記憶が残ってます。
まったく喜ばれませんでしたが、こちらも何をもらったのかすら今ではわかりません。

ただただもったいなかった、と言う印象だけ残っています。

大人になる小説

『それから』で有名なシーンは、代助の告白シーンです。

「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事をあなたに話したい為にわざわざあなたを呼んだのです」
夏目漱石『それから』

「好き」でも「愛している」でもなくて「存在」の問題にしているところが代助の性格が表れていて良いと思いますが、このシーンが象徴するように「恋愛小説」のカテゴリとして語られることが多いのでないかと思います。

たしかに夏目漱石の小説では珍しく、代助の三千代への強い思いが何度も繰り返し描写されます。

けれども10代だった僕に刺さったものは、三千代との恋愛で悩む代助の姿というより、「パン」に困る可能性のある代助の恐怖感だったり、父親との分かり合えることがないだろう代助の諦念でした。

恋愛を貫くことで、その大人になりきれない状況を捨てなければならないことにとても不安があって、抽象的な理論では色々なことをさもありなんと唱えるにもかかわらず、現実では混乱を隠しきれない代助がなんとも痛々しく、心に響いたのです。

当時の頭でっかちで現実的には何も力もなく、見通しもなくただただ抽象的な不安に襲われていた自分には、代助の恐怖感が人ごとではないように感じられました。

姦通罪があった当時の不倫の重さや日糖事件などに象徴される不安定な政治経済の環境で踊らされた代助の父や平岡など、漱石にとって様々な強調点はあったのかもしれません。

しかし当時の僕にとっては、大人(=自律的な人間、漱石が言うところの「自然」の考えに誠実)になることがこの小説の最も大きなテーマのように受け取れました。

今読んでもそのように感じます。

代助のかっこいいカッコ悪さ

この作品と出会うまでにもっていた夏目漱石への印象は、浅はかなのですが、『我輩は猫である』、『坊ちゃん』というような、江戸文学風のエンタメ系譜の作家でした。

しかし『それから』と出会って夏目漱石の印象はまるで違うものとなりました。
機知に富んだ軽快な文章(これも漱石は当然に表現できるのですが)ではなくて、不安や苦しみをギュッと文章に詰め込んだ濃密な文章なように感じたのです。

代助はとても神経質で嗅覚、聴覚が敏感になっている描写も多くあり、強く五感に訴えかけてくる小説です。
白百合が大事なアイテムとして出てきますが、花の香りを嗅いだり、様々な生活環境音に悩まされていたり、繊細であろう記述が多くみられます。

うじうじと行ったり来たりを繰り返し、なかなか決断できず行動に移せない代助はかっこ悪いのですが、その極め付けは、平岡と対峙して「ひどい」と錯乱気味に訴えかけるシーンです。それまでクールに表情を崩さずにいた代助が完全に崩壊してしまいます。

そして物語の最後では、街へ飛び出し、真っ赤な火に包まれた代助の描き方はもう代助の精神世界を描いてるかのようです。
このかっこ悪い代助の姿がなんともかっこよく当時はみえました。

『それから』と『三四郎』は学生時代に読んでおきたい

ハッピーエンドのアメリカ映画のように気持ちよく終わらせてくれず、『それから』どんよりとした気持ちを読後に与えてくれます。

いつも奥さんにあなたの読む本は最後がすっきりしないし、暗いものが多いよね、と言われます。

これぞ純文学の醍醐味だ、と『それから』に教えてもらったのかもしれません。

いつか自分の子供には、おススメしたいなと思います。

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