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ジェニファー・マイケル・ヘクト『自殺の思想史』読んだ

久しぶりの自決シリーズだ。

はい、みんな大好きみすず書房だよ。

古代から現代まで西洋の著名な思想家、宗教家の自殺についての発言をできるだけ丹念に集めたもので、非常に興味深い一冊であった。

キリスト教の教理が確立する以前の古代ギリシャ、ローマで、自決や殉死あるいはそれに準ずる死に方をした人物は多数いる。サムソン、ユダ、ソクラテス、ルクレティア、小カトー、ブルータス、セネカ、アントニウス、クレオパトラなどなど。

しかし自殺が積極的に肯定されていたわけではない。ソクラテスだって弟子に自殺はいけないと弟子に語っているのだ。

ストア派やエピクロス派は自殺に寛容だとみられているが、実際のところ死を過剰に恐れないことに重きをおいていたというべきだろう。

キリストの死は自死なのか議論のあるところだが、キリストは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」とも述べている。

キリスト教が迫害されていた時代には大量の殉教者を出したが、4世紀以降、つまりローマ帝国の国教となる過程で、自殺を厳しく禁じる教理を定める。

キリスト教が自殺に厳しくなったのは、自殺に寛容だった古代の多神教への反発もあったといわれている。神話では失恋、不名誉、能力の喪失などいろいろな理由でカジュアルに自裁が行われている。

トマス・アキナス以降さらに自殺は重罪と認識され、これは宗教改革でも変わらなかった。自殺者は遺体を傷つけたり晒し者にされたりするし、さらには教会での埋葬を拒否され、財産を差し押さえられた。

トマスが自殺を禁じたのは、自身が属する共同体を傷つける、自己愛に反する、神への義務に反する、という3つの理由からであった。

近代以降は個人の確立とともに、神への義務という理由で自殺が非難されることはまれとなり、また自殺後に晒されたり、財産を没収されることはなくなった。しかし共同体への義務、自己への義務についてはより強く主張されることになる。

ヒュームのような啓蒙主義者は、教会への盲信を批判するとともに、自殺する権利を擁護した。ヴォルテール、モンテスキューも比較的自殺に寛容な啓蒙主義者として知られている。

エマニュエル・カントは、自己自身を傷つけてはならない、(自分を含めて)人を殺してはならないという観点から自殺を強く批判した。また自殺は共同体の存立を危うくするのでよくない。

その他、ショーペンハウアー、チェスタトン、デュルケーム、カミュ、サルトルなど、錚々たる面々が自殺はよせといっている。

著者は友人の自殺を契機に執筆したという。したがって自殺はしないほうがいいという願いのもと書かれている。

だから錚々たる面々の言い分がたくさん引用されているのだが、おおむね共同体への義務、自己への義務の2点に集約できる。

当たり前だがたくさんの人がマサダのごとく自決したら共同体が成り立たない。またよく知られているように、自殺は周囲に伝播するのである。これに関しては、じゃあ共同体の役に立っていない人、お荷物になっている人は自決していいいんですかという意地悪な反論を思いつかないでもないが、おおむね同意できる。江戸幕府だって追腹は禁じたのである。

もう一つの自己への義務についてはかなり危うい。人間はできるだけ生きていたいものだから生き延びるのが正しいという論拠なのだが、現代の日本において非常に危険な発想なのは明白であろう。

寿命はできる限り長くあるべきということで、現役世代の搾取がまかりとおっているからである。

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