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岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』読んだ

今年こそウクライナやロシアのことを勉強しようと思っている。そこで、まずは中央アジアの歴史から学ぶ必要があると考えたのである。なかなか本題にたどりつけないのだ。

むかしTwitterで多くの人がおすすめしていたこれを読んだのだ。

これ一冊に中央アジアの歴史がまとまっているのがすごい。先史時代からソ連時代までの興亡を描く。地図がたくさんあるのもいい。おすすめです。

ただし出版されたのがペレストロイカすら始まっていない時期だったようで。。。そこだけ注意されたし。

先史時代の遺跡の説明とかが一通りあって、その次はアケメネス朝ペルシャで、アレクサンドロス大帝の東征、バクトリアやインドのギリシャ人による王朝、大月氏(クシャン人)の台頭、それに先立って漢の張騫とか匈奴などと続いていく。

漢の武帝は東トルキスタンをほぼ制圧している。東西のトルキスタンを分かつのが天山山脈・パミール高原・アライ山脈である。これの西側であるソグディアナ、バクトリア、フェルガナ、サマルカンドなどに中国の支配が及ぶことは基本的になかった。有名なタラス河畔の戦いも天山山脈のちょい西側ですね。

西側ではセレウコス朝とかパルティア、ササン朝ペルシア、ウマイヤ朝、アッバース朝ペルシャと続いて、タラス河畔の戦いにて唐と正面衝突することになるのであった。
唐代の北ユーラシアでは突厥が優勢となり、中央アジアには西突厥が進出してくる。
現在の新疆に、もともと北方遊牧民だったウイグル人が定着したのも唐代であった模様。タリム盆地の南北で優勢となっていた西突厥や吐蕃に対抗するため、唐はウイグル人を必要としたようだ。

宗教はゾロアスター教、景教、マニ教、仏教、イスラム教、ホージャなどがこの地域を通過して、最終的にはイスラム教が支配的となっている。ウマイヤ朝以降に東トルキスタン、インドに伝来している。


ウマイヤ朝とかアッバース朝とかのあとの中央アジアは、セルジューク朝、カズニ朝、カラキタイ、ホラズム朝とかがあったが、まとめてチンギス・ハーンとその子孫に滅ぼされちゃうのだった。
モンゴル帝国もいろいろ分裂して、ティムール朝、ムガール朝、シャイバーニー朝、サファヴィー朝などの興亡があったりして、ロシアにおいてタタールの軛が終わる。

そうして、リトアニア=ポーランドの搾取から逃れてきたウクライナのコサックが中央アジアに進出し、これに続いてロシア人も続々と進出してくる。ピョートル大帝以降は明確に西トルキスタンを支配下におこうとする。


康煕帝の時代に清露国境北辺はネルチンスク条約によって確定する。乾隆帝の時代に外蒙古、新疆まで清朝の支配下におかれ、イリ盆地が清朝とロシアの係争地となる。

19世紀に清の力が衰退すると、イギリスはロシアの南下を真剣に捉える必要がでてくる。グレート・ゲームだ。ただしヒマラヤ山脈・カラコルム山脈という自然の障壁があり、また日露戦争でロシアの国力低下などもあって緊張は緩和されるのであった。

しかし辛亥革命、ロシア革命で中央アジアは混乱に陥り、ソ連のめちゃめちゃな民族政策だとか文化大革命だとか、あるいはオアシスや遊牧民の実態を無視した産業政策によって、かなり大変なことにんあるのであった。

かように様々な民族が入り乱れたこの地域だが、通商により繁栄し、様々な文物が生み出されたのはご案内のとおりだ。

発掘される文字も、漢字、ペルシャ文字、アラム文字、ギリシャ文字、トハラ文字、ソグド文字、ウイグル文字、突厥文字、チベット文字など、まさに文明の十字路と呼ぶに相応しく、バラエティに富んでいる。
古代仏教やインド哲学を研究する人が、言語学習で脳をやられてしまうと言われるのも理解できなくはない。

ただし自分の本来の関心であるウクライナはほんの少ししか関係なかった。まあ外堀がわずかながら埋まったのでよしとしよう。

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