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貫成人『哲学マップ』読んだ

千葉雅也さんがおすすめされていたこの本をようやく読んだのだ。

5年以上積んでいた。。。時間たつの早すぎじゃない?

というかもっと早く読めばよかった。千葉さんが入門書としておすすめするだけのことはある。

西洋哲学史の入門書であり、哲学とは日常から半歩外に出ることである、みたいなそもそも論に始まり、古代ギリシャ、中世、近代、ポストモダンまでまんべんなく網羅している。思弁的実在論とかはないけど、いちおう東洋思想にも触れられているのもよい。

個人的にはほとんど関心を持っていなかった中世哲学を少し知ることができたのがよかった。トマス・アキナスがなぜ重要なのか、そこからオッカムの剃刀みたいな概念がなぜ出てくるのか、などなど。キリスト教社会において、神のような超越的存在を切り離した経験論が発達した背景がよくわかった。

もちろん近世にはデカルトのような大陸合理論もでてきて、これと経験論を調停したのがカントである。経験に先立って、認識に必要な概念(カテゴリー)があるとしたわけである。この概念が生得的なものであるか、経験から得られるものなのかは、本書からは読み取れなかった。

カントは倫理についても考えた人であるが、しばしば対立する複数の倫理を弁証法なる運動過程によって克服しようとしたのがヘーゲルである。対立する倫理は「絶対精神」なるよりメタな概念へと止揚されていく。

しかし自分で書いていても「絶対精神」なるものを胡散臭い感じてしまうのだが、当時もそのように思った人はたくさんいてフォイエルバッハやキルケゴールは疎外とか実存とかいう概念をもってヘーゲルを批判した。

この批判をより先鋭化させたのがマルクス、フロイト、ニーチェであり、現代思想()にも多大なる影響を与えているのはご案内のとおりである。

生成変化しつつも基本的に同じことの繰り返し(永劫回帰)をその都度肯定せよというニーチェの思想がベルクソンともつながっているのは知らなかった。勉強になった。

近代になるとテクノロジーが爆発的に進歩して、それを可能にしている諸科学についての考察が深まる。まず認識についての道具である言語とか数学とかってなんなのかと考えた人々がいた。さらには科学と非科学の境はなにかと考える人々もいた。

そうすると言語はもちろんのこと、数学のようなかなり厳格な学問においてさえ、それ自体だけで厳密な定義が完結しえないということがわかったのである。外部から無根拠で必然性のない概念やイデオロギーをもってこないといけないのである。

このような分析哲学とは別のアプローチで、自然科学()を相対化しのが現象学である。日常における認識そのものを対象とした。我々の知覚の構造は「つねにすでに」成立している。であるならば、イデアとか自我などの概念ではなく、その構造を分析すべきではないか。

その発想をさらに推し進めたのがハイデガーで、実存(現存在)とはつねにすでにあるものであり、本質に先行している。本質や目的とは無関係にただ存在しているから、われわれはしばしば不安になるのである。

知覚の構造には身体性が密接に関係していることは幻影肢などの現象からも明らかであるが、ここまでくると哲学も認知科学や神経科学を巻き込んだものになってくるのであった。

あと、構造主義とかポストモダンについて書いてあるけど割愛。西洋はこれだけモダンの積み重ねがあるからこそ、ポストモダンが成立するというよくある言説は正しいよね。

本書『哲学マップ』は非常にきれいにまとめてあるので、若い人にもおすすめである。というか私が若い時にこんな本があったらよかったのに

と思ったが、なくてよかったのかもしれない。

というのもニー仏さんのこの記事を昨日読んでしまったからである。

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