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美馬達哉『感染症社会: アフターコロナの生政治』読んだ


先日紹介した神経科学者であり医師でもある批評家美馬達哉氏が、コロナ以降に書かれた本を読んだのだ。

といっても2020年5月ころに書かれたものなので、もう2年以上前なのだけれど。

それだけに、ああそんなことあったなあと懐かしくもなった。たとえば第1章では、新型コロナが衝撃的だった理由が語られる。
患者から医療従事者に感染し、医療従事者の間で感染が広がり、それがまた患者や健康な市民にも感染するということが恐怖感を煽った。安全なはずの日常が侵犯されるという恐れが過剰なリスク評価につながった。

著者はこれをゼンメルワイスの発見に準えている。医師が解剖した屍体から、妊婦へと感染させることで産褥熱になるのは、病院や病人という非日常の、それまでは妊婦と産婆で構成されていた日常空間への侵犯だったのだ。

第2章はいまや忘れかけている新型コロナウイルスが世界的に蔓延する前夜についての記述。グローバル化の時代には疫病がどこまでも広がっていくことがわかる。それはジャレッド・ダイアモンドに言われるまでもなく当たり前のことなのだが。

第3章はウイルス一般についての解説と新型コロナウイルスの特徴について。現代の分子生物学の知見をもってすればウイルスの系統樹をたどることは難しくない。
そして感染経路を追跡することも可能となり、「感染させた」者を道徳的に非難することになる。これを犠牲者非難イデオロギーという。今はどこかにいってしまったが、当初称賛されたクラスタ対策が犠牲者非難をおおいに巻き起こしたのはまだ覚えている人もいるだろう。

著者はさらに、実際にクラスタ発生源として報告されていない夜のお店、カラオケ、雀荘、パチンコ屋などがバッシングを受けたことも指摘している。これら道徳的に正しくないイメージのある場所が非難されるのは、穢れを排除しようとする人類の傾向性と合致している。未知の恐怖が日常に潜んでいるよりも、穢れた場所にいることにしたほうが安心なのである。

以上が第4章までで、第5章からはいよいよ生政治の概念を用いて各国で行われた日常生活への介入について概説している。
中国のような強権的な監視・隔離とは異なり、西側諸国では自発的服従に基づく検疫・隔離が行われた。しかしそれは各種メディアが喧伝した恐怖により強いられたもので、これこそまさにフーコーのいう生政治である。

パンデミック対策として封鎖された地域での生活が、交通を遮断されたなかで最低限の生活資金は保障されつつ、働くことも政治活動も制限されている点で、生き延びることだけをゆるされ人権を最小化された難民キャンプでの生活と似通っているのは偶然ではない。

著者は、恐怖を煽るのはウイルスだけでないことを指摘するのも忘れない。典型的には、異質な文化や外国人への恐怖だろう。ここで重要なのは、なにに対する恐怖であれ、恐れる者に共通するのは被害者感情である。自分は感染させられる人という自己憐憫と、感染させる悪い他者への不寛容である。

第6章はペストやコレラの歴史を繙いて、生政治がいかに公衆衛生や近代を作ったかを解説する。生政治はたんに政府の監視活動ではなく、民衆が望んだという側面があることはハンセン病の歴史をみても明らかである。
台湾などでのITを利用した監視システムにしたところで、民衆の同意があって可能だったのだ。

第7章はリスクパニックが社会や個人のあり方を変えてしまう可能性について。

感染症を避けて健康を守るという価値観はもちろん重要だが、人間が生きていく上でそれだけが唯一の価値というわけではない。リスクを制御することだけを社会の目的とするなら、多元的な価値と民主的討論に基づいた政治は必要なくなり、生物医学的な専門知によって、人間の群れの行動を制御する生政治だけが残される。選挙で選ばれたわけではない専門家会議に意思決定を委ね、非常事態を宣言し、移動の自由を制限する隔離・検疫を行い、ときにはプライバシー権を制限して接触者追跡を行うことは、群れをコントロールする生政治の技術としては効率的だ。だが、それでは「犬猫の始末」だ。

(太字は引用者)

わりと強い言葉で生政治の行き過ぎを非難しており、基本的に同意する。

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