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美馬達哉『リスク化される身体』読んだ

生権力的なものに関心はあるが、いきなりフーコーとか読んでもなあと思って、これ読んでみた。面白かった。

ちなみに先日紹介した熊代亨先生の本でも引用されている。

著者の美馬達哉氏は神経科学を専門とする医師、研究者のようだが、著書の多くはフーコー等をベースとした医療、健康、社会の相克を主題としている。

本書はリスクという概念がいかに個人や社会に影響を与えてきたかを論じるものである。リスクには、計算可能なリスクと、計測困難なものがある。後者は、不確実性とかvolatilityと言い換えることもできよう。人間は本能的に不確実性を嫌うことは行動経済学の実験でも示されている。未来の予測が困難になるからだと思われる。

またリスクへの恐怖は、規範の侵犯や日常生活の途絶で増幅される。ほんらい安全な場所が危険になる、天災や疫病に恐怖を感じるのはその典型であろう。

ここで恐怖のような感情は、理性と対立すると単純にとらえてはならない。理性によって全ての可能性を精査することは不可能であるから、感情や直感で判断すべきときもある。それが生存に有利な局面があった時期が長かったから、サピエンスはそのような機構を発達させたのだろう。

しかし安全性が高まった現代では、不確実性によるパニックはテクノクラート独裁を招く。高度に分業化した社会では、専門知にアクセスしがたいからである。またリスクへの介入そのものがリスクになりうるゆえに、その計測は困難である。ますます専門家に頼らざるを得なくなる。


病気や健康については、18世紀末以降に病人だけでなく、健常人も監視するように視座が変化しつつある。病院と日常生活の境界があいまいになりつつある。

臨床医学の発達は、人口再生産パターンの変化をもたらし、身体はコントロールできるしリスクを計測できるという観念を生んだ。

それは健康を監視することを通して、監視をも強化することになった。

これは総力戦体制を可能とした。なぜなら監視、つまりリスクの排除・再分配を介して統一国家へと国民を包摂したからである。

ただし排除可能なリスクを回避しなかったものは道徳的に悪とされる。すなわち、感染させられたという被害感情は、容易に他者への残酷さに変化する。

リスクの再分配は身体情報のテクノロジーによってなされる。生命保険など身体情報のテクノロジーにより不確実性は軽減できる。

身体は所与のものでなく、テクノロジーが介入した諸効果として生産される。例えばパンプティコンのような仕組みでリスクの排除はなされるが、我々は自身の身体をそのようなテクノロジーを介して認識するほかない。

身体情報のテクノロジーはもともと、個人ではなく、大数の法則によってリスクを計算していた。しかしテクノロジーの発達は、個人的と集団的の境界を曖昧にする。集団のデータは、各因子とidでソートすれば個人データに早近似できてしまう。肥満などの「リスクファクター」は悪となる。回避可能なリスクを避けなかったものが生命の危険にさらされても、自己責任となってしまう。

ただし遺伝子そのものをターゲットにした治療であれば、規範の内面化も必要ない。もっともそんなことが可能とは思われないが。


という感じで、本書はリスクの扱い方や、そのメリット・デメリットをかなり詳しく論じている。

しかし健康至上主義の見えやすいデメリットである現役世代の負担増大についてはほぼ言及がない。新自由主義にも一理ある、くらいのことしか言っていない。

2010年前後に書かれたものであるからしかたないことだが。また著者はコロナ禍以降も積極的に発言しているので、それも見ていきたいと思うのであった。

これは美馬氏だけでなく、木澤佐登志氏や西迫大祐氏らの論考も収録されているので入手しようかな。

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