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政治的挫折と引きこもり-柄谷行人「漱石の多様性」『言葉と悲劇』より

恥を忍んで告白すると大学生の頃、柄谷行人の本を片っ端から読んでいた。まあ恥ずかしいことでもないか。当時から20年以上ひっかかっている文言があって、最近そのことにあらためて想いを致すことがあったので少し書いてみることにする。

柄谷行人の本の中でいちばん好きでしばしば読み返すのは『漱石論集成』だ。その名のとおり柄谷が夏目漱石について書いたり語ったりしたのを集めたものである。

これは旧版で、私が所有しているのもこれである。新版が数年前にでているが、本日とりあげたい「漱石の多様性」が収録されているかどうか確認がとれていないのでリンクははらない。

「漱石の多様性」はおそらく1990年代に行われた講演で、非常に読みやすい。初出は『言葉と悲劇』だったと思う。

ここでいう多様性とは、小説、俳句、漢詩などを嗜んだことであり、また小説も、ロマンス、サタイア、ピカレスク、悲劇などさまざまなジャンルをものにしている。

そして本講演では、「こころ」が主題となっている。あらすじをさらっと触れておく。
「先生」は学生のころにKという畏敬すべき友がいた。Kは禁欲的な理想主義者であるとともに神経衰弱を患っていた。「先生」はそれを和らげようと、彼の下宿に同居させる。やがてKは下宿先のお嬢さんに恋愛感情を抱くようになってそれを「先生」に打ち明けるのだが、「先生」は唐突にも女主人に「お嬢さんをください」と言ってKを出し抜いてしまうのだった。その後にKは自殺してしまうのだった。

そういうことがあって、結局は「先生」も自死を選ぶのであるが、そこに至るまでの心の動きを手紙にして主人公の「私」に告白するという体裁である。「先生」は明治天皇の崩御について「明治の精神が天皇に始まつて天皇に終わつたやうな気がしました」、「自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積だ」と書く。

柄谷はこの「明治の精神」とはなにかと問う。禁欲的な理想主義者Kについての描写に言及しつつ「明治の精神」について説明しているので、長くなるが引用する。

「仏教の教義で養われた彼は、衣食住について兎角の贅沢をいふのも恰も不道徳のやうに考へてゐました。なまじい昔の高僧だとか聖闘士だとかの伝を読んだ彼には、動ともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻すれば霊の光輝が増すやうに感ずる場合さへあつたのかも知れません。」
このようにいうと、Kはたんに昔よくいたようなタイプの求道的な青年のように見えますね。しかし、Kのような極端なタイプは、ある時期に固有のものだというべきです。それは仏教であれキリスト教であれ、それ以前のものとは異質です。たとえば、明治10年代末に北村透谷はキリスト教に向かい、西田幾多郎は禅に向かった。それらはKと同じく極端なものでした。
彼らがそのような内面の絶対性に閉じこもったのは、明治10年代末に明治維新にあった可能性が閉ざされ、他方で、制度的には近代国家の体制が確立されていった過程があったからです。つまり、彼らはそれぞれが政治的な闘いに敗れ、それに対し、内面あるいは精神の優位をかかげて世俗的なものを拒否することで対抗しようとしたのです。しかし、透谷は自殺し、西田は帝国大学の専科という屈辱的な場所へ戻っていきました。Kが自殺したのも、先生があとで気づいたように、たんに失恋や友人に裏切られたということではなかった。(中略)
たぶん、同じようなことが漱石自身にもあったはずです。彼はべつに政治的な運動にコミットしていませんが、明治10年代に明治維新の延長として革命が深化されねばならないということを感じていたでしょう(中略)
「明治の精神」とは、いわば”明治十年代”にありえた多様な可能性のことです。たとえば、先生が乃木将軍の遺書に心を打たれるのは、乃木将軍のような考え方なんかではなくて、彼が明治10年の西南戦争で軍旗を奪われ、それ以来「申し訳のために死なうゝと思って、つい今日まで生きてゐた」というようなことです。

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政治的挫折とひきこもりというと、透谷や西田のほかに、島崎藤村『夜明け前』の主人公を思い出す。平田派の国学者であったものの明治中期には飛騨の山奥にひきこもって斎の道を探求するが最終的には発狂してしまう。

柄谷はこういうタイプをこの時期に固有のものだというがそんなことはなかろう。社会を動かそうとして叶わず、内面に引きこもる人間は有史以来やまほどいただろう。

それが時代のなにかと呼応したとき悲劇性を帯びることはあるし、それ以外はマルクスがいうように茶番なのだろう。いやもしかしたら悲劇なんてものはなくて、なにもかも茶番なのかもしれない。

茶番を見せられることについてのうんざりした気分については過去に書いたので本稿では繰り返さない。

この記事で書いたような絶望感はコロナ禍でより可視化されつつあるように思う。もうどうにもならん。

可能性とは時の経過とともに失われていくものなので、そのことにいちいちがっかりしていてもしかたがない。しかし何かに期待するということが年々バカバカしくなってくる。そうすると自分の内側にあるものを育てていくことに専念したくなるのであった。

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