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中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム』読んだ

2014年以降、急速にナショナル・アイデンティティを形成しつつあるウクライナについての、そのものずばりの書。

帯に緊急復刊とあるように、2014年以前、ソ連解体から7年後、オレンジ革命やバルト三国のNATO加盟の6年前に上梓された書籍である。

著者は日本におけるウクライナ研究の先駆者であり、ウクライナ語の教科書まで出しているという。

本書はタイトルのとおりウクライナにおけるナショナリズム、民族意識の歴史的展開をつづったものである。


民族運動のタイポロジー

まずウクライナの民族運動を類型化すると、ロシアに対して合流志向か独立志向か、政治闘争か文化運動か、の2軸でもって4つに分けられる

政治闘争で合流志向の代表はフリメニツキーの乱におけるペレヤスラフ協定である。
分離志向の政治闘争としては、へトマン国家の首領マゼッパがスウェーデンのカール12世と連携してロシアと戦った歴史のほか、いろいろある。

ポルタヴァの戦いでマゼッパとスウェーデンが大敗した後は文化運動が主体となる。シェフチェンコのキリロ・メトディー団がその例であるが、文化運動もロシアに厳しく弾圧されて、やがて政治闘争へと発展する。
しかし1917年に誕生した中央ラーダ政府も短期間で敗北し、再び文化運動の時代となる。
1920年代ソビエト連邦の枠組みの中で政府はウクライナ化を進めたが、これもまた弾圧され、政治闘争化し独ソ戦時代に分離独立を目指すがまたしても敗北した。
ペレストロイカのもとでウクライナの文化運動は再び活発化し、ソ連解体によりようやく独立できたのであった。この文化運動に多大な影響を与えたのがチェルノービル原発事故である。

ウクライナの地理的特徴

ウクライナのナショナリズムを語るとき、もう一つ考慮しないといけないのは歴史的経緯からくる地域的特性である。

一つはドンバスのような、早くからモスクワ大公国・ロシア帝国の支配下に入った地域である。ロシア人が比較的多く、またロシア語が優勢である。

第二にキエフやポルタヴァを含む、へトマン国家だった領域である。たぶん日本人が想定するウクライナといえばこの地域だろう。

第三は右岸ウクライナである。ここはポーランド分割によりロシア帝国に組み込まれた。

第四は新ロシアと呼ばれるウクライナ南部、黒海沿岸の地域である。ザポリージャ、オデーサなどクリミアハン国だった領域であり、さまざまな民族が植民してきた。

第五にガリツィアである。ポーランド分割によりオーストリア領になったエリアだ。最も西欧的で反ロシア的であり、宗教的にはユニエイトが優勢である。

第六に、かつてハンガリー領だったカルパチア・ルーシである。

クリミア、ドンバス、カルパチア・ルーシ、北ブコビナなどでは、ウクライナからの分離主義もうごめいているのが事情を複雑にしていた。(2014年以降は事情が大きく変わったと思われるが)

ウクライナの国境線は複雑で、かつて一つにまとまっていた地域を分断するように走っている。
例えばガリツィアは第一次大戦前はハプスブルク帝国の一地方、戦間期はポーランド領であったのに、独ソによる占領で2つに分断され、戦後は西はポーランド、東はウクライナ(ソ連)になった。

またカルパチア地方は3つに分断されている。北ブコビナはウクライナ、南ブコビアはモルドバ、ベッサラビアもモルドバとウクライナに分割されている。

ドンバス地方も、スターリン時代初期にウクライナとロシアに分割されている。

ロシア人の民族意識

ソ連解体はその領域内に住む全ての民族がアイデンティティの危機に陥った。

ソ連解体前のロシアでは小ロシア主義なるものが台頭していた。つまりロシアは他の弱い共和国に足を引っ張られている、連邦維持はコスパが悪いと考える人々が多くいたのであった。
これに対してゴルバチョフのような連邦維持派は、連邦のロシア性を薄めることで、多民族国家であるソ連を維持しようとしており、これまた小ロシア主義者にとっては腹立たしかったようだ。
実際のところ、ソ連が解体されるとロシアの皆さんは領土を削り取られたと傷ついてしまい、その後のご無体な行動につながるわけで、小ロシア主義なんてものが存在したこと自体が今では全く信じ難いことである、

ソ連解体後にソルジェニーツィンらが唱えたように、ロシアの皆さんは汎ロシア連邦、東スラヴ連邦、みたいなものでアイデンティティを取り戻そうとするのであった。
その一方でユーラシア主義の影響もあり、例えばロシア内の非スラブ民族タタールスタン共和国の独立はけっして認めないのである。

いずれにせよ、ソ連第二の大国ウクライナが国民投票で独立を決めたことで、ソ連の解体は決定的となったのであった。もう一つのスラブ民族国家ベラルーシがロシアとの協調路線を取ったのに対して、ウクライナが反抗的だったのは長兄を自認するロシアにとって耐え難いことであったと想像される。

そもそもその国民投票においても、ロシア人の比較的多いドンバス地方でさえ、独立賛成が圧倒的多数であり、ロシア人がウクライナ人より多いクリミアでも賛成が過半数だったのである。

クリミアはタタール人が優勢であったし、またオスマン・トルコの保護下にあってトルコ人も多くいたと想定されるが、スターリン時代にロシア共和国に編入され、彼らの多くはカザンあたり強制移住させられたのであった。
そして1954年、ペレヤスラフ協定の300年後にウクライナ共和国へ移管され、現在のいざこざの原因となるのであった。
クリミアタタール人の帰還はなかなか進まない。ヤルタ会談や8月クーデターなどで有名な観光・保養の名所であり、セバストポリを擁するクリミア半島には、ニューカマーの余地はあまりないようだ。

ソ連解体で最も深刻なアイデンティティの危機に陥ったのは、ロシア共和国以外に住んでいたロシア人である。ロシアに帰還するか、現地にとどまりその共和国民として生きるか、あるいは分離独立(そしてロシアへの併合)を目指すか、色々な道を模索した。クリミアのロシア人は第3の道を選んだようだ。

言葉と宗教

基本的にウクライナ語は弾圧されてきたが、詩人シェフチェンコ以来ウクライナ語による文学は活発であり、ウクライナ語を維持しようという運動はあった模様。

宗教は正教が優勢だが、ガリツィアなどの西部ではポーランド領だった時代にカトリック化する。その結果、教義はカトリックだが様式は正教というユニエイトが誕生した。ソ連時代は弾圧されてロシア正教に財産を没収される。
またウクライナ正教もあったのだが、ロシア正教に無理やり吸収された。ひそかに独立ウクライナ正教会が作られるも当然のごとく非合法化、弾圧された。

現在はかつて非合法化された教団も、ペレストロイカ以降に合法化されている。またウクライナ領域内のロシア正教会は、ロシア正教会とウクライナ正教会に分裂した。
したがって独立ウクライナ正教会、ユニエイト、ウクライナ正教会、ロシア正教化の、4つのキリスト教系団体があることになる。

言語と宗教の分裂も国民統合を困難にしていると考えられる。(ただし2014年以降はウクライナ語化が相当進行している)

独立!

1986年4月チェルノービル原発事故は多くのウクライナ人を憤激させ、文学者を中心に文化闘争がまきおこる。当初はウクライナ語やユニエイトなどの文化的復権運動であったが、やがて政治闘争へと進展する。

この政治闘争はペレストロイカ、民主化の流れともあいまって、ウクライナ最高会議選挙で非共産党員の進出、そして一1990年7月16日最高会議による主権宣言可決へとつながるのであった。

さらに新連邦条約に調印せずに、90年11月ウクライナ・ロシアの二共和国間での条約が調印される。対等な2つの国の条約という点で画期的だった。

91年3月17日、ゴルバチョフ政権は連邦維持に関する国民投票を実施したが、バルト三国、グルジア、アルメニア、モルドバの6カ国は参加しなかった。この6カ国が連邦に参加しないことを追認する形になってしまう。
同選挙でウクライナは、ウクライナの主権国家化について、クリミアを含む全ての州で高い支持を得た。

もはやソビエト連邦を旧来の形で維持するのは不可能となっていた。8月20日に予定されていた新連邦条約の調印を前にして、いわゆる8月クーデターが勃発した。

そもそもウクライナは調印を拒否する可能性が高かったのだが、このクーデターにより独立への動きは活発となり、8月24日ウクライナ最高会議は独立宣言を採択した。このクーデターの間に独立を宣言したエストニア、ラトヴィアの動きも後押ししたかもしれない。

ウクライナも他の旧ソ連構成国と同じく多民族国家であり、ここで対応を間違ったら分離主義が爆発していた可能性もあったが、12月の独立の賛否を問う国民投票、そしてミンスク合意へと至るのであった。
8月クーデターが失敗してエリツィンが政権を掌握したのが大きかったかもしれない。クリミアの指導部はクーデター支持派で、エリツィンに批判的だったからである。

先述のように国民投票ではクリミアを含む全ての州で過半数を獲得し、ほとんどの週で賛成率は90%を超え、連邦離脱法の定めた有権者の3分の2以上が独立に賛成したのであった。

独立後

先述のようにロシアでは大ロシア主義やユーラシアが復活した。これにNATOの東方拡大の意図も加わり、ロシアは昔ながらのやり方を復活させる。

もちろんNATO側も当初はロシアを刺激しないようにしていたが、ロシアのなかにも分離主義があり、ロシア政府がこれに過激な対応をしたことで事態が進行してしまう。

95年のグルジア駐留、チェチェン侵攻が引き金となり、97年にチェコ、ポーランド、ハンガリーがNATOに加盟するのであった。

こうなるとかつての東欧は東へ移動するほかない。バルト海と黒海を結ぶ6カ国が新たな東欧となった。すなわちバルト三国、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバである。

このうちベラルーシは早くに恭順を示したが、バルト三国はもちろん、ウクライナも素直ではない、、、というところで本書は終了である。

そして2004年バルト三国がNATOに加盟、同年オレンジ革命がウクライナで勃発、、、2014年クリミア併合となるのだが、まあこの辺のお勉強はまたいずれ。


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