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乗松享平『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』読んだ

ロシア・ウクライナシリーズまだまだ続く。

かっこいいタイトルにひかれて買ってしまった、、、

タイトルのとおりロシア現代思想についての書。よく知らない固有名詞がたくさん出てきたので、だいぶ読みにくかったが興味深かった。

ロシアは日本と同じく遅れてきた帝国主義国家であった。そしてともに敗戦国でもある。ただし前者は冷戦の、後者はWW2の敗者だ。
もちろん西洋にとって他者である。

このような観点があることで、どうにかこうにか読み終えることができた。もっとロシア現代思想とかロシア宇宙主義のことを知りたいなあと思うのであった。

以下備忘録。


日本と同じで、ロシアにモダンなんてなかったのだから、プレモダンをポストモダンと勘違いしているだけではないかというツッコミは当然にして妥当する。

西洋にとってロシアは他者であったのだから、モダンなどあるはずがない。いやロシアは西洋にとっての他者という自己規定をしてきたのではなかったか、、、そのような問いが本書では通底しているのであった。

また西側から見れば、ソ連は理想を投影する対象であって、西側の左派知識人と、共産主義に幻想をもっていないロシアの知識人とはすれ違うのである。

トルストイやドストエフスキーはロシアでは神学を大衆レベルで語る装置であったのに、西洋では高尚な文学として受容された。日本でもロシアの文豪なんて呼んだりするので同様だ。

このてのすれ違いはありふれている。

ロシアは自身を西洋にとっての他者と規定していたから、そもそもアイデンティティが希薄であった。あるいはソ連共産党の批判者であった知識人らも、ソ連解体にともない、対抗すべき他者が失われて混乱に陥ったのである。

日本でもこれに似た大きな物語の喪失はあったが、2011年の震災では絆とかつながりが称揚されたのに対して、強いロシアが希求された。プーチンはその現れの一つであるし、2011年のデモの中心人物だったアレクセイ・ナワリヌイもまた民族派に近かったとされる。


日本とロシアを分かったのは第二次大戦だ。日本は敗戦国として西洋を受け入れるほかなかったのに対して、ロシアは戦勝国であったから西欧を超克しようとした。

冷戦の帰結に関しては両大国は立場が逆転したのだが、、、


ユーリー・ロトマン、、、ソルジェニーツィンやサハロフのような異論派ではなかった。ポスト構造主義の受容に多大なる役割を果たした。ソルジェニーツィンにように亡命する知識人は少数派で、多くはソ連にとどまり、公式の規範を受け入れたうえで活動した。

ソヴィエト市民は権力に対して面従背腹だったという認識は、以前から疑われている。

スターリン期の社会も市民の側からの下支えがあって維持されていた面もあることは、西側知識人によっても指摘されてきた。市民はむしろ権力に同化しようとしていた証拠がたくさんある。

したがって、スターリンの死後に、隠された本音が噴出するわけでもなく、新たな規範のもとで本音をゼロから作り出さねばならなかった。


スターリンから権力を引き継いだフルシチョフは郊外にマンションを建設した。コムナルカと呼ばれた共同住宅には言論の自由などなかったから、歓迎された。

しかしフルシチョフ失権後、ブレジネフによる締付け、ユダヤ人排斥といった流れのなかで、ユダヤ人だったロトマンはエストニアのタルトゥ大学に転籍した。これがモスクワ・タルトゥ学派の形成につながった。

フルシチョフ時代の雪解けはスターリンによって歪曲された共産主義を正しい姿に戻そうとする試みであった。同時代の西側の新左翼運動とも重なる。ゴルバチョフもこの世代に属する。


後期ソ連は大きな物語を失ったが、そのあとにポストモダンの知識人が立ち上げたのは、私は権力にとって他者であるという「第二世界の物語」だった。

コジェーブの日本的スノビズムに対応するのが、ソッツアートだ。

私は権力にとって他者であるとは、私が公式規範との関係性でしか規定されないということであるから、スターリンのアイコンで戯れてみせるほかなかったといえる。

日本のポストモダンが動物化したのに対して、ソ連では人間的価値の回復が焦点となった。ソ連では現実に剥き出しの暴力が存在したという背景が日本との大きな違いだろう。

ロシアの二元性という言説は、極端から極端へ走りがちというステレオタイプの影響を受けている。これについてはなんとなく、脱構築すべきロゴス中心主義、二項対立的な思考様式などロシアに存在しなかったことと関係している気がする。もちろん日本も同様である。


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