飯田泰之先生の『日本史に学ぶマネーの論理』面白かったよ

以前から日本の貨幣史には関心があって少しずつ本を買いためて順調に積み上げつつある。

今日はそんな中の一冊、飯田泰之先生の『日本史に学ぶマネーの論理』について書いておこう。

本書はゲンロンの飯田先生と東浩紀氏と井上智弘先生の対談で紹介されていたのでお買い上げしてみたのだ。

歴史の総覧だけでなく、岩井克人の貨幣論やマルクスの価値形態論まで動員した理論書でもある。

というわけで以下に読書メモを。要約ではなく個人的な備忘録と感想なので、気になった人は本書を手にとって内容を確認していただきたい。かなり面白いので。

私が小学生の頃は日本最初の貨幣は和同開珎と習ったのだが、今ではそのようには考えられてはいない。もちろん私はもう小学生ではないから、そもそも貨幣とはなんなのかというめんどくさいところから考えてしまうのであるが。。。

そして本書は日本最古の貨幣とはなんだったのかについての記述から始まる。日本書紀には、今後は銀銭ではなく銅銭を用いよとの記載があるらしい。つまりその時点で銀銭と銅銭があったわけで、前者は無文銀銭と考えられている。無文銀銭の存在は江戸時代から知られていた。

無文銀銭の発行者は不明であるが、古代日本ではどうも計数貨幣として用いられていたようだ。中国ですら当時は銀は計数貨幣としては流通しておらず、その点で日本は先駆的であったといえる。もちろん当時は石見銀山など発見されていないから、原材料は新羅からもたらされたと考えられる。それにしても計数性能に劣る銀がなぜ流通したのか謎である。

無文銀銭にかわって使用されることになった銅銭は富本銭と考えられる。これも存在そのものは江戸時代から知られていた。無文銀銭の発行者・鋳造者は不明だが、富本銭は日本で鋳造された可能性が高い。

富本銭は貨幣発行益を得るために、つまり都の造営事業のために発行されてものと思われる。しかし富本銭は思惑通りには流通しなかったようだ。流通しない貨幣から貨幣発行益を得るのは難しい

そのようなことがあって和同開珎が発行されるに至る。というか富本銭については文書がほぼない。それもあって和同開珎がながらく日本最古の貨幣とされてきたのだ。

貨幣発行益を得るためのプロジェクトとしての和同開珎は一定の成功を収めたらしい。流通させるために、貨幣を貯めた者に位階を約束したり、私鋳の厳罰が定められたりした。また重要なのは税(調)を和同開珎で納入することも認めた。MMTの用語でいえばtax driven currencyである。

和同開珎の発掘範囲の広さから判断するに、日常の決済だけでなく、地域間の大口決済にも使用されたようだ。つまり税の支払いだけでなく、利便性も担っていたということだ。

和同開珎に始まる12の政府発行貨幣を皇朝十二銭という。もちろん時代がくだるにつれて物質としての貨幣の価値は下がっていく。つまり額面価値に比べて銅の含有量は減っていった。しかし物価はそれほどは上がらず、政府は通貨発行益を得たのだ。

平安期までこれは続くのだが、政府が荘園や寺院に課税できないがゆえに通貨発行益が必要とされたという事情があった。その事情の一つは白村江での決定的敗北とそれによる外交上の危機である。

こういう事情がなくなったり、支配階級が全国的な統治政策よりも個人的な蓄財に関心を持つようになり、貨幣の必要性は薄れたし、どんどん価値の下がっていく貨幣は蓄財の手段としても不適切だったろう。

院政期・平氏政権期以降は貨幣よりも稲や布、あるいは渡来銭やそれを模した私鋳銭がとってかわる。この中世は始めは経済的に停滞したがやがて金融業の勃興とともに繁栄を謳歌するようになる。

貨幣が流通するためには絶対的な債務者が必要であるが、絶対的な権力者のいない中世にそれを担ったのは土倉やその上位互換である豪商である。

重要なのは絶対的な債務者がいなくとも、貯蓄への渇望は存在することだ。その受け皿となる債務者は必要とされる。

歴史的には政府などの統治主体がそれに当たり、それを裏付けるのは徴税権力だ。ここで問題になるのは、不安定な時代には徴税するほうはコロコロ変わるので絶対的になりにくい。その一方で徴税されるほうは、未来永劫徴税され続ける。誰に取られるかは変わるかもしれないが。

この非対称性こそが債務者の絶対性を左右する。そして絶対的でないと困るのは、貯蓄の受け皿を欲している人々である。日本政府の国債が多すぎるから減らさないといけないという人がここ30年くらいずっと存在しているが、日本国債を減らすとみんなの預金も減ってしまうのだ。

絶対的な債務者がいないという問題は江戸期まで続く。しかし徳川政権とて直轄地は二割くらいしかないので貨幣発行益に頼るようになってのはご案内のとおりである。

昔の貨幣経済において、貨幣発行益が実現するのはいつかというと発行した貨幣で徴税し、貨幣そのもの以上の価値のものを買い上げた(取り上げたと言ってもよい)ときである。そういう意味では租や庸と調は本質的には変わらないのである。

現代は政府がお買い物するのに徴税や国債発行すら必要ない。事後的に貨幣を発行すればよい。ある意味、過去よりも租や庸に近づいている、と思うのであった。というか、税が実行されるのは政府が実物を買い上げたときという本質は今も昔も変わらないのであり、物理的実在としての貨幣が必要ない現代のほうがその本質がわかりやすいともいえるだろう。


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