仮想と現実

・まえがき

選択、決定が、仮想と現実を作る。
それはあなた個人の選択、決定か。

仮想と現実は、その何かを起こす事が出来るのなら、双方に対した変わりはないのである。
そこを追求してみようと思う。



・五感、仮想とは何か

"仮想"と"現実"と副産物としての"現物"

仮想とは仮に考える、仮に想定されるという現象への名前。

現実とは実際に起こっていることを指す。

現物とはここに有る、目で見える、重量が有る、存在している物品、所有を含め扱うことが出来るという意味合いである。

五感は人間や動物など生命にとっての感覚機能である。

いい匂いを嗅いだ。

それは個人が匂いを評価する事は可能であるが、他者と共有、評論するとなると難しいものである。
感覚は皆、微妙に違う事と、表現への差異がある。
意見交換で五感への完全なる一致が不成立とするのもこういった理由だろう。

別の個人にとっては、

いい匂いではない。

かもしれないのだ。

五感を働かせる事ができるのは個人の意識であり、それを知性によって他者に語ることが出来る。

仮想現実ではあっても現実で体験するのなら、五感は個人の統計データへの記憶として、保存し、思い起こす事は出来るであろう。

五感から離れて、仮想について考えてみよう。

宇宙へ行った事の無い個人が、宇宙はこうである、と語る様な様子は、そこに何の根拠も無いのは周知の事実である。

では、宇宙へは行った事が無い、けれど観測する機械や情報などに携わっている者の発言だとしたら。

月は綺麗だな。

もし、この発言の者が、アポロ計画に携わった者の発言であったとしたら。

アポロ何号だろうか。

しかし、その者は搭乗員でも、飛行士でもない。

地球側で宇宙に関するデータを収集し、保管している者だとしたら。

これが仮想現実に近いのではないだろうか。

大凡、想定できる宇宙の現象を語る事が可能なら。

そしてデータの中の現実を知る者ならば。

しかし、肉体は地球側に居たのだ。

専門分野や、宇宙に携わる者や、そういった形で宇宙についての学に属さない限り、知りえない事を語るということが仮想的と呼べるだろうか。

違う例をあげてみる。

月は綺麗だな。

絵空事を呟く、月に詳しい人だとしたら。

専門的知見があると、宇宙への真理と、個人とが少し近くなるというのが現実である。

あらゆる現象を確かめて、その手で、目で、実験したりする事は現実である。

その現象からの実験を経ての月は綺麗だな、という発言だとしたら。

月に詳しい人の呟きは、絵空事ではないかもしれないのだ。

その月に詳しい人に沢山の質問を投げかけてみなければ宇宙への理解の真偽は問えない。

では、その月に詳しい人は、叔父さんの趣味(望遠鏡で宇宙を見る)の影響で、月に詳しくなっていたとしたら。

そこに個人の本意以外で何らかを、個人自身が試さざるを得ない場合を、仮想と呼べるのではないだろうか。

例えば、自発的だとしても宇宙に関して興味を抱く様に、周囲や環境にそういった外的要因あったとしたら。

望遠鏡や、叔父さんの知見、ポスターや映画、憧れの人、そういった興味をそそる様なものが個人を取り巻く環境にはなかっただろうか。

月に詳しい人の周りの知人達は、どういった影響を月に詳しい人から受けているのだろうか。

それは個人の仮想現実への入り口としての現実なのかもしれない。

しかし、仮想現実とは一体何を指す言葉なのだろう。

月に詳しい人や、宇宙に携わる者以外の例も考えて、より一層理解しなければならない。



・個人は合理化で成っている

人間や生命は過去の統計から危険を回避することが出来る。
統計が多ければ多い程、回避能力が上がる現実にも繋がる。
その対象は危険だけではない。
その統計の内訳は、専門的な見解を個人が知ること、擬似体験すること、個人の経験と知性の融合などである。

では何故、個人はその選択肢から第一候補を常に選択するのか、で仮想と現実を語りたい。

人間の危機回避能力や、安定への依存は、個人の生命を維持する為に備わる能力である。
そこには先程の五感も関与している。
その能力の部分から、自分が経験した優位で周囲、自分にも言い訳の付く合理的選択の中で順番が決められる。

その個人が持つ想定の順番を、仮想現実になりうるもの、と呼べるのではないだろうか。

例えば、あなたは今日、白い服を着ている。昨晩買ってきたトーストを焼いて食べたい。とする。

次にあなたは、そこから連想されるトッピングや味付けを想定する。

そこであなたは今の気分、今求める嗜好、今の許容時間、白い服などの条件を並べて、その中で最も合理的な選択をする。

それを第一候補と呼ぶ。

第二候補には、並べられた条件から程々に相応しいと思われる無難な答えがある。
第三候補には並べられた条件から、第一、第二以下に該当する適当な答えがある。
以下、自分に都合の良いものから悪いものへの順で候補が作成される。

といった具合に、候補にはいくつかの順番があり、瞬時に選択する場合には第一候補が適用される場合が多いのである。

これからトーストを焼くよ、という同居者がいる。

何味がいい?

何でもいいよ。

と言ったあなたのその選択は、先ほどの第三候補以内に大凡、該当する。
その時の選択を、同居者の判断に委ねる、といった具合の第三候補以内の妥協とも呼べる。

同居者があなたの好みや、今の気分、どういった背景があるのかを気にかける(思想的な部分、アレルギー、昨晩食べたもの、この後の予定など)など、
あなた個人を同居者がどれ程把握しているのかでも判断を委ねる基準が変わってくるのだが、双方の関係性をしっかりと設定しておかなくても大方の予想は付くと思うので、置いておく。
尚、同居者がトーストを真っ黒に焦がさない限りは、あなたはトーストを食べる事が可能でもある。

トーストに限らず、あなたは第一候補以下を選択するだろうか。

第三候補の選択へはどう思うだろう。
第三候補は、何も、個人の拘りが無いとは言い切れない。
その事は想定内、という選択肢の三番目であるからだ。

あなたは第十候補を想定しているだろうか。

では、第二十候補は存在するだろうか。

候補というのはある程度、他者から想定する事が可能である。

というのはある程度、知り合った仲の人間からなら、その個人の心理を伺う、または大方に把握することができるからだ。

全くの他人ですら、人間の心理状況を大凡に想定することも可能ではある。

見た目、表情、仕草、身に付けたものから人間は、様々な情報を認識できるからだ。反映して現実とするかは、置いておこう。

もう少し突き詰めると、専門家という専門分野に属する者は、その専門の範疇を個人へ該当して、個人の想定を特定することは、既に、範囲内にあるのである。
専門分野で無い限り、該当率へのパーセンテージは下がるだろうが。

専門分野に精通した側からすると、その専門的視点からお見通しレベルの、個人の選択肢へのバリエーションを語る事ができるだろう。

その専門分野に属する者の、専門的感覚を研ぎ澄ます能力は、技術であり、努力の賜物なのである。

では、地球で暮らす個人の選択肢について焦点を当てる。

個人から想定される選択を、あなたが現実として躊躇なく行動することが可能ならば、その現実を起こすまでにある想定は、あなたの現実に近い仮想と呼べる程度の選択である、という事ではないだろうか。

つまり、仮想も現実も想定内の選択肢である、ということだ。

想定外の選択肢とは何だろう。

それは続きに書きたいと思う。

その個人は、また別の個人とは違う、と言い切れないのは人間の基礎的な、最も根本的な思想や思考、経験、そこから生まれる生命としての選択や決定は、想定されうる現実の中で起こっている。
それを仮想現実と呼べないだろうか。

別の個人が、仮想(想定)で体験した世界を、その個人が知った、という事である。

名前を付けるならば、擬似的体験からの個人の想定内であって、これが仮想現実とも呼べるのではないだろうか。

その個人の意識が見事なまでに反映されているのなら、それは仮想というより現実に近付くのではないだろうか。

経験したことが無い事でしか、刺激や面白味が感じられないのは、それはもはや別の個人が体験しているか、その個人が体験しなくとも大凡の想定がつくものだからであろう。

それを個人だけでなく、世界中のあらゆる個人が共有していて、その個人だけが体験したオリジナル、と呼べないのは世界で起きている現象への基準がある一定で、有る程度に統一されているからではないだろうか。

メディアを通してもわかるだろう。

そういった世界の一定統一基準の中での体験は、個人以外の、別の個人もまた体験していると思った方が早いのかもしれない。

そういった世界に生きるのがつまらない、果てしない、新しい体験の一番目にはなれない、と思うのは個人の自由ではあるが、想定できる範疇の話では、世界基準での仮想、つまり想定というのはそういうものなのであろう、というのが結論である。

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