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「当事者性」を問う―もし私が、あの人だったら。

(イタリアの地震の犠牲者である)299人の名前を忘れない。あなた方(政治家)の放棄から3年後―

この画像はイタリアのとある家に掛けられているものである。政治家たちが"non vi lasciamo soli(あなた方をひとりにはしない)"と言ったのにもかかわらず、地震の被災地は政治家たちから放棄されている。

被災地ももちろんクリスマスを迎えたが、その現状は厳しいものだ。まもなく新しい年が来る。
私達はただ自分の家に戻りたい。望みはただそれだけだ」と語っている被災者の方もいる。

話は変わるが、あなたは歴史の授業を楽しいと思っただろうか?
私はとても好きだったし、とくに世界史の時間はわくわくしていた。それは先生が面白かったからでもあるのだが、それはさておき。

池田晶子さん(14歳の君へ、という本を書いた人)によると、「歴史は当事者性をもったときにこそ面白くなる」という。
当事者性とはつまり、「ナポレオンは私だ」と考えながら歴史を学ぶこと、と彼女は定義している。

今日のこのnoteは、その当事者性についての話だ。

現在18歳の私が、111年前、イタリア南部に生きていたとすれば、間違いなくこの地震を被災していたことだろう。

NASAの資料によると、この年は1880年からの間で最も寒かった年だそうだ。つまり、この年の冬に起きたその地震で発生した津波は、相当冷たいものだったと考えられる。
イタリアの天気の資料を探していたら気象庁のものが先に見つかったので参考程度に載せておくと、気温は5.1度だったそうだ。

そして12月のこの時期ということはクリスマス(Natale)も終わり、クリスチャンにとって大切な日である聖ステファノの日(Giorno di Santo Stefano)も終わり、いよいよ1909年が到来するというまさにそのときであった。
しかし、およそ10万人ともいわれる人たちが、1909年の初日の出を見ることはなかった。その災害を生き延びた人も、彼らの12月27日とは全く違った景色を見ていたことだろう。

建物の90%が破壊され、「15万人いたメッシーナの人口がわずか数百人になり、イタリア全国では20万人が死亡した」とも語られるような悲惨な環境を生き抜いた彼らの未来は、素晴らしいものではなかった。

明けて1909年、再建が始まるとともに、防災措置が取られることとなった。建築物は、この地震と同規模の地震に耐えられるように設計された。しかし、復興の進まない中でイタリアのほかの地域に移住する住民も多く、アメリカ合衆国への移民を余儀なくされた人々もいた。

震災による移民がたどった一挿話として、貨客船「フロリダ」の事故が挙げられる。1909年、移民850人の乗客を載せてナポリから出港した「フロリダ」は、大西洋で霧の中で進路を見失い、豪華客船「リパブリック」に衝突、「フロリダ」では3人が即死した。
船上で発生したパニックに対して、船長は空中への発砲などの手段をとってようやく沈静化に成功する。地震と海難を生き延びた人々は、救助されてニューヨーク港に到着し、新しい生活を送ることとなったのであった。
ウィキペディアより

イタリアの地震に関してDanielaさんという方が書いたこの曲では、「私にできることは、この声で歌うことだけ」といった歌詞がある。
ちなみにこの曲はGoogle Playなどから購入することができるので、音楽好きで被災地に貢献したいと思っている方はぜひとも購入してほしい。

私達は自然に対してこうも非力なので、地震の規模からしたら本当に些細なことしかできない。彼女はいまもどこかで歌を歌い、私はこうして彼らを忘れないよう記事を書いて発信している。ある友達もまた曲を作っていたり、チャリティを行ったりしている。

少し話がそれたが、もし私が1908年にイタリアに生まれていたら、間違いなくその地震の影響を受けていただろう。これは別にメッシーナ地震に限った話ではない。私がある時点である場所に生まれていたら、その出来事に遭遇したかもしれないのだ。逆に、今ではない時代に生まれていたら、私を取り巻く状況は今とは違っていただろう。

こう書いてみれば当たり前なのだが、私があえてこれを書いているのは、人生はあらゆる選択(私がしたもの、させられたもの、気がついたらこうなっていたものを含め)の連続であるということだ。

まず生まれた国と時代、家族という段階である程度は決まってしまう。
独裁国家の狭い世界で暮らす少年が、自由な空の下で過ごせるのは難しいだろうし、虐待をする親のもとに生まれていたら、命さえ失われるかもしれない。

ただ、その先のある程度は自分で決めることができる。これが人生の醍醐味であるといえるかもしれない。

過去の自分がしたり自動的にされたり強制されたりした選択が、未来の自分を作る。

その選択(もう言わないが、自分でしたものとしていないものを含む)の結果により、ひとはある場所にいる。

その結果、降りかかるいくつものイベントに遭遇する。そのイベントこそが人生のストーリーとなるものであり、人生という歴史を作っていく。
ちなみに、イタリア語のstoriaには「歴史」と「物語」という2つの意味がある。

外出先で雨に降られるといった些細なことから、愛する人の交通事故を目撃して心を病むといった大きなものまであるが、ここでは話を災害に絞ろう。

たまたまその場所にいたというだけで、彼らは災害に巻き込まれた。そして命を落とし、あるいは残りの人生をズタズタにされた。
メッシーナ地震では(これはメッシーナ地震に限ったことではないが)救助が遅れて亡くなった人もいる。
コムーネ全体が被災地になったのだから当然だ。海上からしか被災地に行けなかったとも読んだ。
そして、全く違った年越しをせざるを得なくなった。

あまりに古い地震なのでPTSDになったり自殺したりした人の割合の統計はない。そもそもPTSDという概念が戦争神経症、つまりベトナム戦争後のことであるから仕方のない話だ。
ただ、私はラクイラ地震の統計を得ることができた。

震災直後、人口の15〜35%が心的外傷後ストレス障害(PTSD)の影響を受けましたが、今日、精神保健の分野では、ラクイラの人々は本当に良い回復力を示していると言えます。 2016年-17年の地震の際には、心的外傷後に現れる症状のいくつかの悪化が発生しましたが、ラクイラの住民は実際に生活を再開する十分な能力を示していると思います。

人口7万人のラクイラで35%というと約2万人だ。

当時約14万人の住民がいたメッシーナは約8万人を失い、レッジョ・カラブリアは45,000人の人口のうち約15,000人の死亡を記録しました。 他の推定によると、120,000人の犠牲者、シチリアの80,000人、およびカラブリアの40,000人の犠牲者に達しました。 負傷者の数はとても多く、壊滅的な被害は物的な損害でした。 余震は、翌日から1909年3月末まで頻繁に繰り返されました。

ウィキペディアイタリア語版によると生存者は6万人+3万人と見込めるので、より多くの方がトラウマに苦しんだに違いない。
さらに、医学(精神医学)が確立されていない時代のことだ。偏見や抑圧もすごいものだったろう。
ナチス・ドイツでは精神障害者も迫害の対象だったことも知られているほどである。

その中のひとりに、生まれた場所と時代が違えば、私はなっていたかもしれないのだ。読者のあなたも含め、そのようなものが人生だ。

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