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不安な水曜日

花屋のガラスケースに、夕方の空が反射している。中に置かれた巨大な胡蝶蘭の白。の、上に重なる、紫がかったオレンジ。それらが混ざり合う境界の微妙な色合いを見つめていたら、何の前触れもなく漠然とした不安が押し寄せて来た。視線を少し下に落とすと、まるで泣き出す3秒前のような悲痛な眼差しの女の顔が映っていた。ふと我に帰り、姿勢を正す。そうすると、店の奥で、わずかに戸惑いの混じった微笑みを浮かべている店員と目があった。途端に恥ずかしくなる。仕事帰りらしきよれよれの会社員が、自分の店のガラス窓に張り付いて悲惨な表情のまま固まっていたら、そんな顔にもなるだろう。

どうしたんだ。寄り道をするとか。
私としてはめずらしい。普段気にも留めていなかった近所の花屋を覗くなんて…
おもむろに窓から体を離し、家の方向へと向き直る。そして、何事もなかったかのように歩き出した。
私にとって帰り道は記号である。会社→自宅、この2つの場所を繋いでいる、一本のまっすぐで単純な矢印だ。爆裂に帰りたい。
なんとなく振り返ると、先ほどまでいた花屋は夕闇に紛れ、存在感を無くしていた。唯一目立つ濃いボルドーの屋根だけが、なんだか置き去りにされているように見え、淋しげだった。

自宅のマンションへ到着すると、機械より機械的な動きで鍵をバッグから取り出し、ドアを開け、一人暮らしの部屋の狭い廊下を移動、バッグをボト、と置き、そこから垂直に倒れ、カーペットと同化した。

まぶたを開けると、時計は1時37分を指していた。セブンで何も考えずに買った辛ラーメンとやまいもサラダとたっぷりクリームプリンを無の感情で胃に放り込む。スマホの画面でyoutubeを見ながら。新しい都市伝説や心霊写真特集。人間の体は辛いものや怖いものでもストレス解消できるって、日曜4時くらいのワイドショーで間延びしたようなテンションで紹介されていた。なんだかんだで、私は割と幸せな生きものかもしれなかった。

食べ終わった瞬間に眠くなる。抗えず、薄いカーペットにふたたび倒れ込む。
キッチンの蛇口から、透明な雫が落ちる。
一滴の水さえ、規則正しく動いている。
お風呂に入るのを諦め、部屋の電気を全て消した。
外の信号の色がカーテンの隙間から入り、壁の色を淡く赤、青、黄色、
と変えていた。

まだ、私は眠らずにいる。

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