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フランス語圏で生きる

さて、どこから書いたらいいのか。
2010年6月終わりから、当時遠距離中だった現在の旦那とカナダモントリオールにて暮らすことになり、約半年間政府のフランス語学校へ通うことととなりました。それがまず私のフランス語入門。
日本でギリギリまで働いていた私はフランス語入門の本を数冊持ってきたものの、「ボンジュール。サバビエン?」こういうベタなカタカナ発音の単語を数個覚えたのみで、その当時は覚束ない英語のみで乗り切る生活を始めました。
ケベックの公用語はフランス語のみ。これは実は数年前まで知りませんでした。モントリオール市内はエリアにもよりますが英語を話す方も沢山住まれていて、私のガタガタな英語でもなんとか日常生活は送れていましたが、郊外の旦那の実家近くへ行くとフランス語色が強くなり、買い物をしてもレジの人が何と言っているのか全く分からないという状態でした。

フランス語学校
当時知り合った日本人の人たちの情報網を頼りに、11月からなんとか移民向けの政府のフランス語学校に潜り混むことになりました。そこで約二か月ごとに試験を受けながら進級し、当時のクラス分けで中上級クラスまで終了したところでビザのこと、結婚などがあり一時日本へ帰国することに。
この学校では数人の日本人の方、色々な国から来たクラスメートと知り合え、すごく濃ゆい楽しい思い出ができました。ここも書くと長くなるけど、いつかは書いてみたいと思っています。
最初の方は教師からの差別的な冷遇を受けたり、カルチャーショックも受け、辛いことも体験したけど、最後は本当にいいクラスに入れ、とても貴重な経験をしたと思っています。

結婚、出産

2011年結婚。妊娠、出産で2012年。カナダでの生活が子ども中心の生活へ。
ケベックで活躍されている看護師さんのブログを見つけて読み漁っていたので、日本で看護師経験がありながら実際こちらで看護師として活躍されている方の存在は知っていました。実際何かの機会にお会いしたことがあった
のですが、英仏堪能で流暢に話される姿を見て、
「いや、私には絶対無理」と勝手に自分と比べて悲しくなったものです。
また、妊娠を機に自分が患者として病院へ通う日が続き、ハイリスク妊婦だったので、なかなかの頻度でクリニック、病院へ一人で検査を受けに行く日々。
モントリオールは英語系の病院、フランス語系の病院と分かれているのですが、(もちろん英仏、それ以外の言語を話せる職員はたくさんいます。主にその医療施設で使用されている言語が英仏どちらかが強いというのはあります。地域、大学系列などで分かれたり)その当時英語系の病院へ行った私は英語、フランス語を混ぜながらなんとか自分の状態を伝え、向こうの質問、説明を聞くのにも精いっぱいでした。英語系の病院の英語の方がネイティブ、又は第二言語の医療者には、私のたどたどしいフランス語は面倒、じゃ英語話して、と急に英語に切り替えられるともう自分が何を言いたいか全く出てこない、、こういう時「私は向こう側(医療者側)にはここでは戻ろうなんて思えるわけがない」と色々な感情が渦巻いていました。
うっかり前職が看護師でした、などと言おうものなら、それならここでも需要はあるよ!頑張ってみたら?と言われることも何度かあったけど、この言葉の壁、というものは私の前に高く、高くそびえ立って、カナダで看護師になりたい!と志高く思っていた分けでもなかった私にはもう患者以外で病院に立ち入ることもないだろうという思いばかりを増やしていったのでした。

それから、緊急帝王切開で32週で双子を出産し、産後NICUに入院していた双子に搾乳した母乳を持っていく生活を続け、そこでも色々あり、私の「向こう側には戻れない感」は増すばかり。

この時期は本当に色々なことがあり、心身ともに疲弊していた頃。しかし、妊娠、出産の時も私の精神的な助けは今思うと看護の知識、経験といったものが大きかったのです。ハイリスク妊娠時のこと、産後の母子分離の不安、悲しみ。そういう思いはネットで目に留まった看護研究を読んでみたりして理解、納得したり。こちらの看護師の方の声掛けやケアをふーん そういう風なアプローチか、記録はどう書くんだろう?とかそういう客観的に見ていることでちょっと冷静になれたり。

次回はまた産後からフランス語学習に戻るまでなどを書いていきたいと思います。妊娠、出産もいつか書きたいです。

読んで頂きありがとうございます。



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