映画『ジョーカー』感想

 実は初日のうちに映画『ジョーカー』を観ていたので。なんかもの言いたくなっちゃう作品だよね。

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この記事は映画『ジョーカー』についてネタバレしまくりです
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 ネットでは「正体不明の混沌がジョーカーのウリなのに、出自を明かしてしまっては格が落ちる」「作品のテーマを表現するために“バットマンのジョーカー”を使う必要はなかった」などの意見もちらほらある。
 ただ個人的には非常に心動かされた映画だったし、「この世界のジョーカーはこうなのだ」と納得すればいいんじゃないか。そして映画を通してなんらかの社会的メッセージを伝える役目を担わされたのなら、それは空想のキャラクターとしても意義あることだと思う。

 アメコミ全てを把握してる訳じゃないけど、ジョーカーの出自らしきエピソードは既にある。売れないコメディアンが最愛の妻をも亡くし、茫然自失のうちに赤いマスクの強盗計画に巻き込まれ、化学薬品の槽に落ちて顔面が変色し狂気に陥るといった感じ。あるアニメでは彼を追い詰め薬品槽に落としてしまったのがバットマンという解釈もあった……様に思う。不確かで申し訳ない。
 ただ何れの説を取るにしても、ジョーカーはもともと弱者なのだ。一生懸命に暮らしていても報われず、“犯罪”とされる行為に手を染めるしかなくなった圧倒的な弱者。ヒーローが救えなかった被害者。

 おれはこの映画のテーマ的な何かをストレートに受け止めることにした。アーサーという一個人がその資質ゆえにジョーカーになったのではなく、ゴッサムという社会がアーサーを媒体としてジョーカーを誕生させたのだ。そしてそれは先進国気取りの現代社会ではどこでも起こりそうなこと……あるいは既に起こっていることだ。
 ジョーカーを恐れる者は彼を化け物、怪物と呼ぶ。でもアーサーから見れば社会全体が弱者を養分に肥え太る化物だったろう。その深遠の中で彼は自らの身にも化物を宿した。
 
 映画を観ている我々はみんなアーサーに成り得る。アーサーの母親にも成り得る。三人の証券マンに成り得るし、トーマス・ウェインにも成り得る。まとめて破滅したくなければ、人間が群れ集う社会とはどうあるべきか、考えてみなければならない。混沌に飲み込まれてから「何故こんな」と思っても遅い。

 後のヒーローの父親であるトーマス。彼個人は悪人と呼ぶほどではないけど、「見えていない」人物として描かれていた。善人の様に振る舞っていても弱者の目線に立つことは出来ない。表でピエロデモをしてる真っ最中に家族と観劇に興じている辺り、余裕ある富裕層としての我が身を省みることはしないんだろう。
 トーマスにせよ、あの人気司会者(名前忘れた)にせよ、作中で描かれた姿が人間としての全てではないだろう。しかし作中で描かれた姿もまた彼等の一面だ。

 この作品でもウェイン夫妻の運命は同じだった。続編が作られるなら、ブルースはコウモリのコスチュームを身にまとうんだろうか。成人した彼は父の業績をどう評価するんだろう。
 
 個人的に洋の東西を問わずヒーローものは大好きなんだけど、時に疑問を抱くこともある。心身にハンデを負い、経済的にも人間関係にも恵まれず、“犯罪”に走るしかなかった弱者に対して拳を向けるだけのヒーロー。彼等が送られる刑務所は狂った猛獣の檻の様に描かれ、まともな更生プログラムが機能しているかどうか判らない。
 ヒーローは自由と平和を守る。だが自由という名の弱肉強食が報われぬ者たちを生み出し、カチグミだけが平和を享受しているのが現実ではないのか。王制を打倒し近代国家が生まれたのなら、現在の秩序を破壊することで人類にとってより善き社会に変わる可能性もあるのでは?

 自由、秩序、平和。ヒーローが守るべきものは本来社会が守るべきものだ。それが果たせぬ理想に過ぎないとしても、ヒーローと社会は「世の中は生きるに値する」と言い続けなければならない。弱者に寄り添わなければならない。心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ。

 そして社会がヒーローになれないのなら、ジョーカーが運んでくる混沌の中で滅ぶだけだろう。

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