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ぼくらは「意味の世界」をこそ生きている。「はじめての哲学的思考」より。

優雅に水上を動く白鳥は、水面下で激しく足をかいている。どこかでそのような言葉を見かけました。真偽は不明ですが、その意図するところはわかります。それと同じように…とは言いませんが、暇そうに見える古本屋も忙しく仕事をしているかもしれません。

そして今日も暗くなってから誰もいない店内でひっそりと読書を始めました。本日読んでいたのは店主の大好きなレーベルでもあるちくまプリマー新書の「はじめての哲学的思考」という本。今日も素晴らしい出会いがありました。

この本は若い人向けの哲学書、はじめての哲学書です。だからとても優しく書かれています。ゆえに、店主がふんわりとわかっている気になっていたことを、よりよくわかることができました。名著の14歳の哲学とはまた違ったテイストです。

この本の中で特に店主が感銘を受け腑に落ちたのが、「意味の世界」は「事実の世界」に原理的に先立つという考えです。ちなみに事実の世界の事実とは科学のことと言ってもいいでしょう。

私たちは科学という「事実の世界」が世界を支配しており、その科学の結果に対して私たちが生きる意味などの「意味の世界」を後付けしている。そのように考えがちですが、それが間違っているというのです。事実はまるっきり逆なのだと。私たちが知ったり感じたりした「意味の世界」にこそ、「事実の世界」が存在するという考えが正しいというのです。

それはどういうことかというと、例えば、私たちはデジタルで色を作り出すときにRGB(Red、Green、Blue)という3原色のルールを採用します。そのRGBの発見によって科学が発展し、素晴らしいテレビやスマホが開発されてきました。しかし、もし私たちの目がカラスのように人間の目より何百倍も優れていたらどうでしょうか?私たちはもっと多くの色を発見して発展させていのではないでしょうか?また、逆に私たちの目が猫のように色が白黒しか見えなくて、色のない世界が当然だと全ての人が考えていたら、RGBという科学的発見は私たちの世界に存在したでしょうか?

そう考えると、私たちが揺るがない事実として認定する科学というものは、私たちが認識した後に存在するものという理屈になります。つまり、私たちが「意味の世界」を見つけることにより、そこに「事実の世界」が存在するという理論が成り立ちます。

この事実を本で読んだときに、「ふ」と身近な例を思い出しました。

全てのことを自分に都合よく考えてしまう、誰とも分かり合えないだろうと思われる人が店主の知り合いに存在します。唯一、人を騙すことだけが上手いその人は事実を歪曲して考えて行動するので、誰かがどれだけ理論的な説明を試みても彼の行動が改善されることはありません。決して頭は悪くないのに、どうしてそんなことをするのだろと考えていました。しかしもしかしたら、その人はと他の人と「意味の世界」が違うのかもしれません。人を大事にする気持ちや信頼関係というものが彼にとっては認識できないのかもしれません。もっとわかりやすく言えば、その人だけが感じている世界、見えている世界が違うのかもしれません。

しかし、そのように考えていくと私たち全ての人間が、それぞれ違った世界を生きているような気もしますし、世間一般の人は共通した価値観を持っており、クレーマーや炎上騒ぎを起こす人だけが違った世界に生きていると考えられるような気もします。

とまあ、本を読んで気に入ったところをひとつだけ紹介しようと思いましたが、本日も長々と文章を書いてしまいました。哲学が敬遠されるのは、こんなところからかもしれませんね。

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