幕間 13 緋色の牝鹿亭にて
緋色の牝鹿亭へ続く半端な坂道を歩きながら、サイラスは首筋をさすった。
「あいちちち……。まだ痛むな。今夜は寝返り打てそうにねーなあ」
「悪かったってば。いいかげん許しておくれよ」
「ああ、いや、当てつけてるわけじゃねーんだ。つい触っちまってな」
サイラスは痛む首をねじり、笑顔を取り繕った。筋が悲鳴をあげようとするのは無理やり抑え込んだ。デルフィナにこれ以上しょんぼりされると晩飯が不味くなる。
バラウル帝国時代の遺跡を探索した帰りである。帝政時代の硬貨などで一攫千金を期待したが、住みついていた死霊術師によって既にあらかた換金されていて、めぼしい物は何も得られなかった。
それどころか、死霊の群れが侵入者を脅かすためにたっぷりと配置されていて、存分にその務めを果たした。お化け嫌いのデルフィナは終始怯えっぱなしで、その太い腕をサイラスの首に回して抱きついてきた時は、本気で死を覚悟したものだ。この程度の痛みで済んだのは幸運かもしれない。
「誰にだって苦手なもンはあっからなァ。しょうがなかンべ」
珍しく先頭を歩くヨーナスが、かんらかんらと笑い声をあげた。サイラスはじとりと睨んだ。
「そりゃそうだけどよ。得しかしてないお前に言われると、なんか腹立つな」
「はっはっは」
学士様はどこ吹く風といった様子でまた笑った。考古学とやらに傾倒しているヨーナスとしては遺跡が探索できれば満足なのだ。
そのうえデルフィナ(と、間接的にサイラス)を苦しめた死霊術師は、隠棲する地を求めただけの高名な賢人だったらしく、和解してからは小難しい話でずいぶんと盛り上がっていた。自分もここに住むと言い出すのではないかと思ったほどだ。何やら互いに一冊の書物を交換して終わったようだが……。
「まあ、お前が死霊が苦手なの知ってて探索を続けようとしたのは俺だからな。女子に頼られるのは悪い気しねーし、そんな気にすんなよ」
「……ふん、そうかい」
デルフィナはそっぽを向いた。ようやく普段の彼女らしい顔になったが、機嫌を直したわけでもなさそうだ。拗ねているのか?
坂を上りきり、ヨーナスが緋色の牝鹿亭のドアを開けると、聞き慣れた金切り声が出迎えた。カウンターには誰もいない。
サイラスが声を出そうとする前に、食堂の方からドタドタと足音が近づいてきた。親父さんの体重は相変わらずらしい……などと思っていると、廊下から出てきたのは意外にもトビーだった。
「なんだ。サイラスさん達か」
「なんだとはご挨拶じゃねーか、坊ちゃんよ」サイラスは進み出て、硬貨の入った袋をカウンターに置いた。いつも通り、二泊分とおまけとで150クリムだ。「誰かを待ってたんか? 急ぎ足だったな」
「ん、いや、別に?」トビーは目を合わせることなく、硬貨の枚数を確認しはじめた。手つきが泳いでいる。「あ、ヨーナスさん。もし良かったら、あとで勉強を見てもらえます?」
「おお、いいぞいいぞぉ。仕事で疲れてるだろうに、偉いもンだなぁ」
「まあ、ここ最近はそんなに……いや」
トビーは語尾をしおれさせて口ごもった。小生意気なこの少年にしては珍しい態度だ。いつもやり込められているサイラスとしては貴重な反撃の好機だったが、廊下から出てきた桃色の髪の少女がそれを取り上げた。
「トビー。私、そろそろ……」
「あ、ごめんアイリス。今日もありがと。皆さん、彼女のこと送ってあげてもらえます? 僕、夕飯の支度しなくちゃなので」
「ああ、勿論いいけどよ」
「お願いします」
そう言うと、トビーは食堂へ戻っていった。大きな本を抱いたアイリスは下がり眉でそれを見送り、小さく息を吐いた。
「トビーの坊ちゃん、なんか様子が変じゃなかったか?」
「大方、あの尼さん絡みのことだべ」
「尼さん? ああ、レイチェルか」
ここ最近、リディアで彼女を見た記憶はない。噂では《ユニコーン騎士団》に雇われて、あちこち飛び回っているらしい。サイラス達と違い、たんまり稼いでいるのだろうか。
「つまりアレか。上客がいなくなって稼ぎが減ったから、ご機嫌ななめってことか?」
「……違う、と思います」アイリスが小さな声で言った。「レイチェルさん、部屋はとったままだし、毎月仕送りしてるみたいだから……」
「そうなのか? じゃあ別に関係ないんじゃ」
「あんたにゃ分かんないよ」
「痛って!?」
首にほとばしる痛みに悲鳴をあげた。頭上にのしかかったデルフィナの手に捩じられたのだ。
「アイリスちゃん、このバカは放っといて、あたしと行こうか。女ふたりの方が相談しやすいだろ?」
「わ、私は、べつに」アイリスは本をぎゅっと抱き締め、顔を赤らめた。「相談したいことなんて……」
「遠慮はよしな。あたしも愚痴りたいことがあるんだ。悩み多き年頃だろ、お互いにさ……」
デルフィナは少女の背を優しく叩き、外へ出て行く。サイラスは首を捻りたくなるのを我慢しつつ、それを見送った。
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