酔夢 6 母の導きを受けた夜
夜の礼拝堂の最前列で、母さんはひとり、お酒を楽しんでいた。
「またこんなトコで呑んでるの?」
「別にいいでしょ。一仕事した後なんだから」
母さんは背もたれに行儀悪く腕を引っかけ、赤い顔でへらへらと笑った。敬語も外れている。よほど機嫌がいいみたいだ。
「それにほら、見て。とっても綺麗だよ」
母さんは乾杯するみたいに杯を掲げ、ステンドグラスを示した。硝子の絵の中で白狼が天狼の勇者とともに見上げている青い月は、本物の月の光を透過して、冷たい光を礼拝堂に投げかけていた。
「ほんとだ。綺麗だね」
「でしょ」
母さんは自慢げな顔で言って、自分の位置を横にずらし、右隣に座るよう私にうながした。私は軋む床板を踏みすすみ、うながされた通りに腰を下ろした。
「あんた、将来のことで迷ってるみたいだね」
「……ん」
「いいことだよ。うんと考えて、うんと迷いな」
私は母さんの横顔を見た。
「いいの? 迷って」
「もちろん。いつもそう言ってる」
「おじさんは、躊躇するなって……」
「それ、誤解してるね」
母さんは左隣に置いたボトルを手に取って、空の杯に琥珀色の液体を注ぐ。
「おじさまは、決断すべき時を逃さずに決断できるようにしろって言ってるの。雨や雪はいつか必ず地面に落ちる。でも人間はそうなるまでに自分で落ち方を決められるからね。大切なのは、この長いようで短い時間をちゃんと活かすこと。落下を早めりゃいいってわけじゃないよ」
「……それは、この村の神様の教え?」
「そう」
「だから、おじさんは躊躇しないの?」
「そう。迷える時にさんざん迷ってるから、最後には突っ走れるんだよ。この村はみんなそう」
クリスが攫われそうになった時、助けに来てくれた村のみんなを思い出す。誰もが普段からは想像できない動きで、一歩も引かずに賊に立ち向かっていた。
イラの村は、ずっとずっと昔、遠い土地からやってきた人々を先祖に持つらしい。彼らは神と崇める白狼とともに在り、降りかかる災いを力でもって払う戦闘民族だった。やがて白狼がその身を大地に返した場所……白き森を安住の地とし、流浪と闘争の歴史に区切りをつけた。
私はその伝承を知ってはいたけれど、納得はしていなかった。ブラッドおじさんはともかく、酒浸りの母さんや、年を喰った子供みたいな性格の村長とかが、戦闘民族の血筋? 現実感がなかった。
でもあの日のみんなを見て、ようやくそれは事実として胸に落ちてきた。そしてその事実は、そのまま釘のように私に突き刺さった。
「……みんな、白狼様の子なんだね。うらやましい」
母さんが私を見る。しまった、と思ったけれど、自然に零れた本音はもう取り返せない。
「もしかして、あんた……。『自分は拾われた子だから、みんなみたいになれない』って悩んでるの?」
「……」
握った両拳のなかで、爪が私に血を流させようとした。この人にだけは言ってはいけないことを言ってしまった、その罪を罰するように。
血の繋がりのあるなしを気にするなんて無意味だ。そんなのはずっと前から分かってた。けれど最近、心の底の知らない場所から私の足首を掴んできて、囁いてくる奴がいる。私と同じ声、同じ姿の知らない奴が。
おじさんみたいな強い冒険者になりたい。クリスを守れなかった時、その想いはさらに強まった。だから精いっぱい鍛錬しなきゃ。無理だよ、あんたは白狼様の子じゃないもの。
母さんみたいな優しい癒し手になりたい。クリスを癒せなかった時、その想いが初めて生まれた。だから精いっぱい勉強しなきゃ。無理だよ、あんたは母さんの子じゃないもの……。
耳を抑えても、胸を掻きむしっても、その声は消えてくれなかった。おじさんは私を白狼の子だと言ってくれたのに、私はこの人を母さんと呼んでいるのに、どうしてもどうしても消えてくれなくて。そんな声を生み出す自分が、そんな声を消せない自分が、たまらなく厭になって。
私の葛藤を、母さんは見透かしていたと思う。その眼差しを私から外し、ふたたびステンドグラスに向けた。
「そう。あんたもそういうことで悩む年頃になったんだね」
「……無駄だよね。こんな下らない悩みで動きを止めちゃうなんて」
「無駄じゃないし、下らない悩みなんかこの世にないよ。たしかに生産的な悩みじゃないけどね。でもそうやって悩むのは、あんたが成長した証だから」
「成長? 変だよ。前に進めなくなるのが成長だなんて」
「変じゃないよ。自分を疑い出したってことは、今まで気付いていなかった自分の弱さを知ったってことだもの。何だって知らないよりは知ってた方がいい。自分のことなら尚更ね」
私は母さんに見えないよう、眉間の皺を深くした。正しいようだけれど、誤魔化そうとしてるようにも聞こえる。
「でも……なんで今になって、なのかな。きっかけらしいことなんて、なかったのに」
「たぶん、寂しいって気持ちを知ったからじゃないの」
「寂しい?」
「クリスがいなくなってから、あんたが感じてる気持ちのこと」
締め付けられるような痛みが胸に走った。ひと月前、クリスが両親のいる都会に帰っていったあの日以来、時おり訪れる痛みだ。これが、寂しい?
「考えたらあんた、仲のいい人とお別れするって経験、初めてだもんね。心も体も戸惑ってるんじゃない。しかもやけに物分かり良かったし。我慢してたんでしょ、どうせ」
「我慢なんて……」
してない、と思っていた。クリスがこの村に来たのは療養のためだ。母さんの看護のおかげか、彼は数年のあいだに見違えるくらい健康になった。だったら家族のところへ帰るべきだ。それは喜ばしいことなんだから、笑って見送ろうって言い聞かせて……。
そうだ。言い聞かせてた。言葉にならない感情を、感情の伴わない言葉で塗りつぶそうとしていた。本当は、彼が帰ると聞いた瞬間から、この痛みは胸に灯っていたんだ。
「人間って不思議でさ。ひとつ大きな気付きを得ると、別のことにも気が付くようにできてるんだよね」
母さんは言う。
「その気付きの周りにあるものとか、逆にぜんぜん離れてるものとか。あんたは寂しいっていう気持ちを知って、その周りにある色んな気持ちも知った。我慢した分だけ、たくさんね。だからそれは成長だよ」
「……」
やっぱり丸め込まれてる気がする。でもそれでいいのかもしれない。詭弁だろうと何だろうと、前に進めるのなら。
「なんか……やけにしみじみ語るね。実感こもってる感じ」
「そりゃそうだよ。私はあんたの母さんだよ? 寂しさなんて、とっくに知ってる」
そう言って、笑う。細めたその瞳に一瞬だけ浮かんだ煌めきを見て、私はまた、言ってはいけないことを言ってしまったのだと悟った。
お酒の入った杯を手渡してきた。私は戸惑いながら受け取った。
「クソ魔王のせいで父さんと母さんが死んじゃった時、私は色んな気持ちを知ったよ。寂しい。悲しい。不安。惨めさ。死にたくなるってこういうことなんだ。神様を信じられないってこういうことなんだ……って」
母さんは椅子から立ち上がり、祭壇の方へ歩いていく。
「創世の神エルアズルも、天狼の勇者シリウスも、父さんと母さんを助けてくれなかった。村の守り神である白狼様でさえ助けてくれなかった。そんなの信じて何になるんだ。父さん達は『神様にまっすぐ顔を向けられるよう、人として善く生きなさい』って言ってたけど、役立たずの神様に向ける顔なんてない。死んでしまった神様なんか、もう信じたりするもんかって……」
くるりと振り返る。
「そう思ってた時だったよ。白き森であんたを拾ったのは」
ステンドグラスの冷たい光を背に、母さんの影は微笑んだ。
「びっくりしたなあ。真っ白な真冬の森で、小さな女の子が裸でぼうっと突っ立ってるんだもの。覚えてない?」
「……ない」
曖昧に答える。当時の私は赤ん坊でなく、きちんとした言葉を話せるかどうかくらいに見えたそうだけど、明確な記憶は残っていない。
「放っておこうかとも思ったけどさ。寒さに震えるあんたを見たら、『善く生きなさい』って声が聞こえた気がして。いつの間にか抱き締めてた。冷え切った肌の奥から聞こえるあんたの鼓動が、すごく優しくて、あったかかった」
「……」
「それでね、思ったんだ。このぬくもりが腕の中にあるのは、『善く生きなさい』って教えを守れたから。私がそう在れるかどうか、神様が見てくれてたんだ。神様は死んだりしないんだって。現実の何がどうであれ、そう信じることにしたの」
「信じる……」
「詭弁でもいいから従ってみようってこと。今のあんたなら、分かるかな?」
私は頷く。母さんの「説教」をこんなに真面目に聞けたのは、初めてだった。
「もちろん、簡単に信じたわけじゃないよ。信じるって言葉、聞こえはいいけど、それについて考えるのを止めちゃうって意味でもあるからね。考えて、悩んで、迷って迷って迷った末に……私はここに立っている」
母さんは言う。勇者を守護する白狼の使徒として、イラの村民を教え導く司祭の影が、誇らしげに両手を広げる。
「レイチェル。私はあんたを救い、導きたい。あんたのぬくもりに救われた時、強く強くそう思った。未熟な小娘風情にそんなことができるのかなって悩んだし、おじさまや村のみんなに迷惑をかけるだろうなって迷ったけれど、そうすると決めたからそうしたの。そんな私の言葉でよければ、どうか、聞いて」
母さんは目を閉じ、両手を組んで、祈るように語り出す。
「大いに迷いなさい。迷い、考え続けなさい。あなたが善く生きたいと思うなら、考えることを止めてはなりません」
「……」
「善く迷い、善く考え、善く生きようとするあなたが決めたことならば、たとえそれが何かを傷つけるとしても、必ず何かを救えるはずです。人が生きることはそれの繰り返しなのです。だから」
修道女は目を開けた。
「どんなに曲がりくねってもいい。それでも最後には、まっすぐ、まっすぐ、まっすぐに歩いていきなさい。気高く愛しい、白狼の子よ」
「……」
私は俯いた。返すべき言葉は知っていたけれど、絶対に違う声が出てしまうから、ぎゅっと唇を嚙み締めた。
膝にのせた杯の中で、琥珀色の酒が揺れている。母さんが好きな果実酒じゃなかった。どうして母さんが渡してきたのか悟った私は、意を決し、呷った。
「うえっ、げほ、げほっ!」
冷え切った酒は喉を焼いて、私に涙を流させた。母さんがクスクスと笑った。
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